福井県三方郡美浜町にある戦国時代末に築かれた山城が国吉城(くによしじょう)。佐柿地区にあったため佐柿国吉城とも通称されています。若狭国と敦賀国の国境を守備する城で、越前朝倉氏の侵攻を撃退した城としても有名。続日本100名城にも選定され、若狭国吉城歴史資料館も建っています。
織田信長の越前攻めで、三英傑が揃って宿所とした城
丹後街道の椿峠は、標高は50mほどですが若狭国の東端を固める重要な峠で、峠の南側、標高197mの城山に若狭国守護大名・武田氏の重臣、粟屋勝久(あわやかつひさ)が築いたのが国吉城です。
永禄11年(1568年)、若狭国守護・武田元明(たけだもとあき)が囚われて越前、朝倉館(現・一乗谷朝倉氏遺跡)に連行された際にも、粟屋勝久は国吉城に籠もって頑強に抵抗しています。
元亀元年(1570年)、織田信長の越前侵攻では、国吉城は織田信長の宿所となり、木下藤吉郎(豊臣秀吉)、徳川家康を伴って国吉城に入城。
いわゆる三英傑揃い踏みとなったのです。
織田信長軍は、天筒山城、金ヶ崎城(ともに現・福井県敦賀市)を攻略するものの、浅井長政の裏切りでいったん退却しています。
天正元年8月(1573年9月)、織田信長は再度、越前に侵入し、一乗谷城の戦いで朝倉氏は滅亡。
その後、若狭は織田氏の重臣・丹羽長秀(にわながひで)が領有し、粟屋勝久もその配下に。
本能寺の変後は羽柴秀吉に仕えますが、国替えで木村重茲が入部しています。
廃城になった時期は定かでありませんが、慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)の元和の一国一城令で廃城となったと推測できます。
寛永11年(1634年)、酒井忠勝(さかいただかつ)の若狭入りで、完全に破却されています。
国吉城の遺構としては、曲輪、石垣、土塁、堀切が現存。
山麓には居館と見られる石垣もあり、平時は山麓で暮らし、いざという時に山上に籠もったと推測できます。
国吉城 | |
名称 | 国吉城/くによしじょう |
所在地 | 福井県三方郡美浜町佐柿 |
関連HP | 若狭美浜観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR美浜駅からタクシーで7分で若狭国吉城歴史資料館 |
ドライブで | 舞鶴若狭自動車道若狭美浜ICから約3km |
駐車場 | 若狭国吉城歴史資料館駐車場を利用 |
問い合わせ | 若狭美浜観光協会 TEL:0770-32-0222/FAX:0770-32-1249 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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