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十五郎穴横穴墓群

十五郎穴横穴墓群

茨城県ひたちなか市中根にある古墳時代末期から奈良時代に築かれた横穴墓群が、十五郎穴横穴墓群(じゅうごろうあなおうけつぼぐん)。平成26年度の調査では272基が確認され、総数は300基を越えると推定される国内最大規模の横穴墓群で、指渋(さしぶ)、館出(たてだし)、笠谷(かさや)の3支群に分かれています。

那珂川河口(那珂湊)近くの丘陵に築かれた横穴墓群

横穴墓は、遺体を埋葬する埋葬施設の玄室(げんしつ)、その玄関となる玄門、玄室へ通じる羨道(せんどう)、入口前の前庭部で構成され(古墳の横穴式石室と類似で、古墳の簡略化、大衆化)、凝灰岩の崖に築かれています。

横穴墓からは人骨、須恵器、直刀、勾玉(まがたま)、切子玉(きりこだま)など多数の副葬品が出土。

1基の玄室には少なくとも8人の遺体や遺骨が納められていたので、関東地区の他の横穴墓群と同様に、有力家父長とその家族と推測できます。
7世紀になると古墳に埋葬されることが可能となった階層が増えたこと、ヤマト王権による地域支配が進んだことの裏付けにもなっています。

発掘調査の結果、館出支群35号墓からは正倉院に納められている宝物に似た、鞘尻(さやじり)金具や帯取り金具などの飾り金具が付いた刀子(とうす=現代の小刀)や蕨手刀(わらびてとう=馬上で戦いや護身用の刀)も出土、かなり地位の高い人が埋葬されていたことが推測されています。

3つの支群のうち、館出支群34基は、茨城県の史跡に指定。
北側に徒歩5分ほどの場所には東日本では代表的な彩色壁画古墳の虎塚古墳(前方後円墳、墳丘長56.5m/国の史跡)もあるので、あわせて見学を。

十五郎穴の名の由来は、この地に十郎五郎なる人物、つまりは鎌倉時代初期の武士・曽我兄弟(五郎と十郎)が住んでいた という伝承から(ただし、虎塚古墳は十郎の愛人・虎御前の墓という伝承で、古墳時代と鎌倉時代で、時代が不一致です)。

被葬者に関しては定かでありませんが、那珂川河口(那珂湊)近くに位置し、太平洋の水運との関係性が推測できます。
『続日本紀』(しょくにほんぎ)の養老7年2月13日(723年3月23日)の条に常陸国那珂郡の大領(地方の長)、外正七位上の宇治部直荒山(うじべのあたいあらやま)が私有財産から籾3000石を陸奥の鎮所(現・仙台市太白区にあった陸奥国府=郡山遺跡)に献上し、外従五位下に昇進したと記されていますが、那珂川河口一帯に有力な豪族が居住し、朝廷の蝦夷(えみし)追討を支援する物資を海路届けたことがわかります。

十五郎穴横穴墓群
名称 十五郎穴横穴墓群/じゅうごろうあなおうけつぼぐん
所在地 茨城県ひたちなか市中根館出3490
関連HP ひたちなか市公式ホームページ
電車・バスで ひたちなか海浜鉄道湊線中根駅から徒歩20分
ドライブで 北関東自動車道ひたちなかICから約1.8km
駐車場 ひたちなか市埋蔵文化財調査センター駐車場(30台/無料)
問い合わせ 埋蔵文化財調査センター TEL:029-276-8311/教育委員会文化財室 TEL:029-273-0111
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

虎塚古墳

ひたちなか市にある7世紀前半に築造された全長56.5mの前方後円墳が虎塚古墳(とらづかこふん)。昭和48年に明治大学・大塚初重(おおつかはつしげ)教授による発掘調査が行なわれ、横穴式石室内部に赤色のベンガラ(第二酸化鉄)が使用された装飾壁画

 

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