茨城県古河市鴻巣にある中世の城館跡が古河公方館跡(こがくぼうやかたあと)。享徳4年(1455年)、初代の古河公方、足利成氏(あしかがしげうじ)が築いた館で、現在は、古河公方公園(古河総合公園)として整備された一角にあり、三方を囲んだ御所沼も復元されています。遺構は残されていませんが、濠、土塁が現存。
古河公方・足利成氏の城館跡
第5代鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府の将軍が関東10ヶ国を統治するために設置した鎌倉府の長官)・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事件を発端にした享徳の乱(きょうとくのらん=約30年間に及ぶ政変で、関東における戦国時代の幕開けになりました)。
享徳4年(1455年)、足利成氏は、鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となっています。
古河に城館を構えたのは、当時、水上交通の要衝・古河は鎌倉公方御料所の拠点で、経済的な基盤となる下河辺荘(しもこうべのしょう)を従える好立地でした。
つまり、足利成氏は古河の城館を拠点に、関東10ヶ国を統治しようと試みたのです。
まず、古河鴻巣に屋形(古河公方館)を設け、長禄元年(1457年)には修築した古河城に移っているので(『鎌倉大草紙』)、半島状の地に築いた城館に暮らしたのはわずかに2年ほどということに。
その後、古河公方・足利氏は、足利成氏、政氏、高基、晴氏、義氏と5代にわたって古河城を居館に、古河鴻巣の屋形を別邸(鴻巣御所)にしていたとも推測できます。
天正11年(1583年)、足利義氏が没すると、豊臣秀吉は、天正18年(1590年)の小田原征伐後に古河城を廃城にし、息女・氏女(うじひめ)が古河鴻巣の屋形に入っています。
寛永4年(1627年)に廃止されるまで、鴻巣御所と呼ばれて存続していたのです。
往時は二重の濠に囲まれ、大手口から、下宿、中宿、上宿という家臣団の屋敷が連なっていました。
石碑の西側に濠、土塁が現存しています。
古河公方公園(古河総合公園)内にある古河公方館跡の北、桃林の一角に徳源院跡(「古河公方足利義氏墓所」として茨城県の史跡)がありますが、徳源院は、5代古河公方足利義氏の息女・氏女(うじひめ)の法号です。
大正初期に、古河城跡は渡良瀬川改修工事のため、大部分が河川敷となり消失しているので(古河歴史博物館は出城の諏訪曲輪に立地)、鴻巣御所跡である古河公方館跡は、古河公方の歴史を今に伝える貴重な歴史遺産になっているのです。
古河公方館跡 | |
名称 | 古河公方館跡/こがくぼうやかたあと |
所在地 | 茨城県古河市鴻巣1045 |
関連HP | 古河市公式ホームページ |
電車・バスで | JR古河駅、東武新古河駅からタクシーで10分 |
ドライブで | 圏央道境古河ICから約15km。東北自動車道久喜ICから約16km |
駐車場 | 古河公方公園駐車場(1000台/無料) |
問い合わせ | 古河公方公園 TEL:0280-47-1129 |
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