岡崎城(愛知県岡崎市)に生まれ、幼少期には人質生活を送り、戦乱の世を生き抜き、ついに江戸に徳川幕府を開いた徳川家康。大河ドラマ『どうする家康』のタイトルどおり、波乱万丈、危機一髪が連続する人生ですが、ゆかりの城、転機となった城11城を、年代順に紹介します。
家康生誕の城|岡崎城
所在地:愛知県岡崎市康生町561
関連年月日:天文11年12月26日(1543年1月31日)
内容:徳川家康は、三河松平家第8代・松平広忠の嫡男として、岡崎城二の丸に生誕。
江戸時代には「神君出生の城」として神聖視された城です
二の丸は誕生曲輪(たんじょうくるわ)とも呼ばれ、産湯(うぶゆ)の井戸、家康の胞衣を埋めたとされるえな塚が残されています。
家康が駿府で人質生活を送った城館|今川氏館
所在地:静岡県静岡市葵区
関連年月日:天文18年12月27日(1550年1月14日)=駿府到着/11月22日の異説あり
内容:「駿府城・府中城」とも呼ばれていたのが「戦国の雄」として巨大な権力を有した今川義元の居館(残念ながら駿府城の構築で、今川義元の居館がどこにあったのかは定かでありません)
人質となった竹千代の住居は、『三河物語』には「少将の宮の町」とだけ記され、定かでありません
天文24年(1555年)、元服したのも駿府で、今川義元の姪、瀬名(築山殿)を娶っています
桶狭間の戦いで今川軍の救援物資を届けた城|大高城
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町城山
関連年月日:永禄3年5月18日(1560年6月11日)
内容:松平元康(徳川家康)は、大高城を包囲する信長方の鷲津砦(北東)、丸根砦(東)、正光寺砦(南)、氷上山砦(西)の包囲網をくぐり抜けて兵糧を届け、大高城代・鵜殿長照(うどのながてる)に代わって大高城を守備
今川義元が討たれたため、一転して大高城に孤立する危機的状況に陥り、松平元康(徳川家康)も大高城を離れて故国・岡崎へと敗走(人質生活の終焉)
織田信長と清洲同盟を結ぶ|清洲城
所在地:愛知県清須市朝日城屋敷1-1
関連年月日:永禄5年1月15日(1562年2月18日)
内容:織田信秀(織田信長の父)、松平広忠(徳川家康の父)時代からの宿敵関係で、家臣も同盟に反対するものも多かったのですが、家康が信長の居城・清洲城を訪れて、清洲同盟を締結
織田信長は美濃の斎藤道三と対峙し、双方の利点が一致したのです(信長は、同盟締結後、居城を小牧山城に移しています)
武田信玄の遠州侵攻に備え拠点を浜松に移す|引間城(曳馬城)
所在地:静岡県浜松市中区元城町111-2
関連年:元亀元年(1570年)
内容:家康は岡崎城を嫡男・信康に譲り、遠州・引間城(曳馬城)に拠点を移し、武田信玄の侵攻に備えています
引間城(曳馬城)の場所には現在、元城町東照宮が建っています
手狭だった城を拡張し、名前も浜松に改称|浜松城
所在地:静岡県浜松市中区元城町100-2
関連年月日:
内容:当時の地名、曳馬という名が「馬を引く」(敗北)に通じることから浜松荘(荘園の名)に因んで浜松と改め、近世的な城郭としての浜松城を建設
元亀3年(1573年)、武田信玄との三方原の戦いで手痛い敗北を喫し、命からがら逃げ帰ったのも浜松城で、29歳から45歳までの17年間、城主を務めています
江戸時代には浜松城主となることが、徳川幕府誕生への登竜門だったことや、歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから、別名「出世城」とも呼ばれています
信長の盟友・徳川家康の屋敷|安土城(徳川家康邸跡)
所在地:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
関連年月日:天正4年(1576年)頃
内容:安土城の主郭部分の入口、黒鉄門跡へと通じる大手道の途中、前田利家邸跡を越えた右手が徳川家康邸跡です
豊臣秀吉の命で関八州に移封され、築城|江戸城
所在地:東京都千代田区千代田1-1
関連年月日:天正18年7月5日(1590年8月4日)
内容:豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡した後、秀吉は家康の脅威を退けるため、北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封
徳川家康は江戸城を創建
秀吉没後の五大老時代に登城した城|大坂城
所在地:大阪府大阪市中央区大阪城1-1
関連年月日:慶長3年8月18日(1598年9月18日)=豊臣秀吉没
内容:大坂城西の丸に、大坂城本丸と同じ天守を造営しそこを拠点とするなど、豊臣方にとっては許しがたい行動に
大坂城内には本丸天守と、西の丸にも天守が並び、諸大名の正月の年賀の挨拶もどちらを先に拝謁すべきか迷うことに
この挑発的行為で、徳川方、豊臣方ともに決戦への準備を進めたのです
将軍の宣下を受けた城|伏見城
所在地:京都府京都市伏見区桃山町大蔵
関連年月日:慶長8年2月12日(1603年3月24日)
内容:豊臣秀吉が天皇を補佐する関白を名乗ったことに対し、徳川家康は武家社会で絶対的権威の象徴である征夷大将軍の道を選択、伏見城で待つ家康のもとに朝廷の勅使が到着、晴れて天下の将軍となりました
将軍宣下によって家康は、豊臣政権の五大老のひとりではなく、武士の筆頭として江戸に幕府を開くことになったのです
将軍宣下を受けてから、慶長9年3月〜8月までの約半年間を伏見城に滞在するなど伏見城を関西の拠点にしていました
晩年を過ごし大御所時代を築いた城|駿府城
所在地:静岡市葵区駿府城公園1-1
関連年月日:慶長12年7月3日(1607年8月25日)=駿府城竣工
内容:将軍職を徳川秀忠に譲った家康は、駿府城を居城に、実質的には政治的な権力を有するという大御所政治を行なっています。
慶長14年(1609年)には駿府藩主に徳川頼宣(とくがわよりのぶ/徳川家康の十男、後に紀州藩主となり紀州徳川家の祖)が就任し、駿府藩50万石の藩庁でもありましたが、海外からの使節なども家康に対面するため、駿府城を訪れています
徳川家康が75歳で没したのもこの駿府城です(死因は定かでありませんが胃がんという説が定説)
徳川家康ゆかりの城 11城 | |
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