金沢の庶民が通った花街(はなまち)が浅野川沿いにある主計町茶屋街(かずえまちちゃやがい)。戦前まで鼻の下を伸ばした男たちは、中の橋をいそいそと渡り、人目に付かないように「暗がり坂」の石段を歩いて、主計町に通ったのだとか。美しい街並みは金沢市主計町重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。
茶屋街の風情が昔のままに残る町並みを散策
木造の中の橋、暗がり坂の石段、そして主計町茶屋街の風情は昔のままに残されていて、通りを歩けば三味線の音を聞くことも。
町の名前も町名統合で尾張町と呼ばれていたのが、平成11年に旧来の主計町に戻されています。
町名が旧町名に戻る例は全国で初の例とか。
古きものをいとおしむ金沢市民の心意気が伝わってくる話です。
主計町(かずえまち)という地名は江戸時代に加賀藩初期の重臣・富田主計(とだかずえ)の屋敷があったことから付いた名前。
富田主計は、
宇喜多秀家の息女(前田利家の孫にあたる)を室(妻)にして、禄高1万石余の上級武士で、人持組頭を務め、1618(元和4)年に没しています。
「金沢の三文豪」のひとり、泉鏡花(いずみきょうか)は隣町の新町で生まれ育ったことから、少年時代はここが遊び場だったとか。
金沢にはにし、ひがし、主計町の3つの茶屋街がありますが、主計町は庶民向けの茶屋街で誕生したのも明治時代。
お茶屋を再生した伝統工芸品のショップ「ギャラリー鏡花(照乃屋)」、大正2年築の茶屋を再生した町家カフェ「土家」(つちや)などは、内部を見学ができます。
帳(とばり)の降りる夕方以降なら、さらに雰囲気は高まります。
金沢ライトアップバスを利用の場合は、尾張町、または橋場町(金城樓前)を利用。
金沢市主計町重要伝統的建造物群保存地区
東西約150m、南北約140m、面積約0.6haの範囲が金沢市主計町重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
これは、北側の浅野川と南側の斜面に挟まれた最盛期の茶屋町の全域をカバーしています。
町家は、切妻造平入り(きりつまづくりひらいり)、2階建てが基本で、1階には飛騨高山と同様に出格子(でごうし=出窓に格子を付けたもの)が配されています。
主計町茶屋街の東西両端には、藩政時代の東惣構堀(ひがしうちそうがまえぼり)、西内惣構堀が水路として流れています。
江戸時代の初めに金沢城を防御する目的で築かれた惣構(そうがまえ)の一部で、東惣構堀、西内惣構堀で城下を取り囲んで、城郭都市としていました。
内惣構は、2代藩主・前田利長が高山右近(たかやまうこん)に命じて、1599(慶長4)年に築いたものです。
これは、北側の浅野川と南側の斜面に挟まれた最盛期の茶屋町の全域をカバーしています。
町家は、切妻造平入り(きりつまづくりひらいり)、2階建てが基本で、1階には飛騨高山と同様に出格子(でごうし=出窓に格子を付けたもの)が配されています。
主計町茶屋街の東西両端には、藩政時代の東惣構堀(ひがしうちそうがまえぼり)、西内惣構堀が水路として流れています。
江戸時代の初めに金沢城を防御する目的で築かれた惣構(そうがまえ)の一部で、東惣構堀、西内惣構堀で城下を取り囲んで、城郭都市としていました。
内惣構は、2代藩主・前田利長が高山右近(たかやまうこん)に命じて、1599(慶長4)年に築いたものです。
主計町茶屋街 | |
名称 | 主計町茶屋街/かずえまちちゃやがい |
所在地 | 石川県金沢市主計町 |
関連HP | 金沢市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | JR金沢駅から北陸鉄道バス橋場町経由柳橋・東部車庫行きで10分、橋場町下車、徒歩3分。JR金沢駅から金沢周遊バス11分、橋場町(金城楼前)下車、徒歩3分 |
ドライブで | 北陸自動車道金沢東ICから約4.6km |
駐車場 | 東山河畔観光駐車場(14台/有料)・東山観光駐車場(15台/有料) |
問い合わせ | 金沢市文化財保護課 TEL:076-220-2469/FAX:076-224-5046 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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