江戸時代から明治にかけて、蝦夷地と大坂を結んだ西廻り航路に活躍した北前船。その船主や船頭たちが集中して住んだ船主集落が石川県加賀市の橋立地区。最盛期には日本一といわれるほどに北前船で繁栄した船主や船乗りたちの住宅が軒を連ね、加賀市加賀橋立伝統的建造物群保存地区に指定されています。
見事に現存する北前船の船主集落
鉄道輸送が発達する大正時代頃まで、大量の物資を運ぶ手段として舟運は欠かせないものでしたが、日本海を走る北前船は、日本経済にとっては大切な大動脈(太平洋側よりも物流量がありました)。
最盛期に加賀橋立では、100隻以上の北前船を擁し、寛政8年(1796年)の『船道定法之記』には34名の船主が記録されています。
蝦夷地では、昆布や数の子、塩鮭、塩鱒、鰊粕(にしんかす=ニシンから油をとった搾りかす)、〆粕を買い、富山で肥料用に鰊粕を売り、米や薬を購入、小浜・敦賀では生蝋を売り、縄やムシロを買う、山陰の浜田で塩を売り、鉄を購入、瀬戸内の諸港で塩や紙、砂糖、畳表、生蝋などを買い、大坂で酒や綿などを買う、といった具合です。
今では小さな漁港となった加賀橋立も、北前船で大いに繁栄した時代を秘めているのです。
橋立の家並み11.0haが平成17年4月1日に伝統的建造物群保存地区に指定。
北前船の船主の住宅、井戸、洗い場、板塀、石垣など集落全体が保全の対象となっています。
現存する橋立地区の歴史的建造物は、船主邸14棟、船乗り邸12棟、蔵32棟。
大正5年に出版された雑誌『生活』には、「日本一の富豪村」と紹介されていますが、北海道小樽市の小樽市総合博物館・運河館(旧小樽市博物館)の重厚な蔵は、実は橋立の11代・西出孫左衛門が明治26年に築いた小樽倉庫本社を再生したものです。
万延元年(1860年)に橋立に生まれ、明治22年に小樽に進出、日露戦争後の海運発展に乗じて、 「東洋一の回漕店」となるまで発展しています。
幕末には日本一の北前船の基地として繁栄した橋立ですが、今では観光化もされずにひっそりと残されているので、北前船主・酒谷長兵衛の邸宅を再生した「北前船の里資料館」、酒谷家の建物と庭園を保存した「北前船主屋敷蔵六園」を起点に、のんびりと探勝を。
船主集落は、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の構成資産にもなっています。
橋立と近江商人との密接な関係にも注目を!
半農半漁だった橋立の集落に、江戸時代中期、能登半島からの出稼ぎ労働者がやってくるようになり、松前藩の海産物の交易権を有していた近江商人に引き立てられて蝦夷地(北海道)への廻船の船乗りになる者が誕生します(近江商人は、越前、若狭、加賀、能登など北陸の船乗りを採用し、若狭・小浜、越前・敦賀を拠点に松前藩との交易を独占していました)。
18世紀初頭に北前船の交易ルート(西廻り廻船)が確立し、18世紀の半ばには、資力を蓄え、船乗りから北前船の船主になる者が現れ、身内や橋立の村人を船頭や船乗りにしたので、急速に廻船業が発達します。
当時、橋立には江州愛知郡(現・滋賀県犬上郡豊郷町)の豪商・藤野四郎兵衛を「御本家」と称している船頭または船主家が6戸ありました。
御本家の沖船頭として奉公に励みながら、一方では御本家の保護の下に富を蓄積して自前の船を購入し、自らも船主として廻船業に乗り出したのです。
ちなみに、橋立には大型船が停泊できる港はなく、船は冬の間、大坂に係留。
つまりは、北前船で稼いだ富だけが、北陸の地に運ばれてきたのです。
加賀市加賀橋立伝統的建造物群保存地区(橋立の船主集落) | |
名称 | 加賀市加賀橋立伝統的建造物群保存地区(橋立の船主集落)/かがしかがはしだてでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく(はしだてのふなぬししゅうらく) |
所在地 | 石川県加賀市橋立 |
関連HP | 加賀市公式ホームページ |
電車・バスで | JR加賀温泉駅から加賀温泉バス橋立行きで20分、終点下車、徒歩5分 |
ドライブで | 北陸自動車道片山津ICから約5.5km |
駐車場 | 50台/無料 |
問い合わせ | 加賀市文化振興課文化財係 TEL:0761-72-7888/FAX:0761-72-7991 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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