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教科書で学んだ歴史が揺らぐ! 縄文時代の遺跡(岡山県総社市)で稲作を立証!

岡山県総社市といえば、古墳時代の5〜6世紀にかけてヤマト王権、そして出雲と並ぶ「古代吉備王国」 が繁栄した古代の先進地。その総社市で、岡山県立大の建設時に発掘調査が行なわれた南溝手遺跡から、縄文時代の土器なのに籾(おみ)の痕跡が残る籾痕土器が見つかり、これまでの歴史観を大きく変えることになりつつあるのです。

ひと粒の籾の痕(あと)が考古学界を揺るがせる波紋に!

岡山県古代吉備文化財センターが1996年出版した調査報告書 『南溝手遺跡』で、出土した縄文時代後期後葉(3500年前)の土器の表面に籾の痕跡が残されていることが明らかとなり(報道発表は1992年)、当時、大きな話題となりました。

それまでは、2500年前に稲作は朝鮮半島から玄海灘を渡って北九州に上陸、しだいに東日本へと伝搬したと解説されていました。
当初は、他地域から持ち込まれた可能性を指摘した考古学者もいましたが、それも科学的に否定されたのです。

米などのイネ科の植物が作られていたことを示す重要な証拠に、プラント・オパール(plant opal)と呼ばれる指標がありますが(イネ科の植物は、土壌中の珪酸を吸収し、細胞壁にガラス質の細胞体を形成、枯れた後にも腐敗せず残存し土壌に保存)、稲作の起源を探る研究には欠かせないものとなっています。
このプラント・オパールの指標でも南溝手遺跡の稲作は縄文時代後期には始まっていたことが裏付けられ、持ち込まれ説は否定されたのです。

岡山県下では、福田貝塚(倉敷市)からも縄文時代後期の籾痕土器が出土し、さらには真庭市の姫笹原遺跡からは縄文時代中期(5000年前)のプラント・オパールを発見、「古代吉備王国」が繁栄するはるか以前の縄文時代に、稲作が始まっていたことがわかっています。

こうした一連の発見から、これまで教科書などで学んできた「縄文時代=狩猟・採取の時代、弥生時代=鉄器の普及・水田耕作の開始期」という単純な図式は大きく揺らぐことになっているのです。
ただし、岡山県内の縄文遺跡からは稲作の痕跡は見つかったものの、水田跡は出土していません。

弥生時代の始まりを表す最も大きな文化的要素は、中国大陸の長江流域および朝鮮半島南部から伝来した水田稲作農耕であることは間違いありませんが、縄文時代も後期になると、稲をはじめ瓢箪(ひょうたん)など様々な植物を栽培していたことが明らかになっています(青森県の遺跡も縄文時代後期に稲作が行なわれていることが判明しています)。

教科書で学んだ歴史が揺らぐ! 縄文時代の遺跡(岡山県総社市)で稲作を立証!
名称 南溝手遺跡/みなみみぞていせき
所在地 岡山県総社市南溝手
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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