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横浜公園

横浜公園

横浜市内では山手公園の次に古い西洋式公園が横浜スタジアムがある横浜公園。実は、ここが日本人に開放された日本初の公園。しかも日本初の野球の国際試合が行なわれた公園にもなっています。文化庁の登録記念物で、「旧居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る」として経済産業省の近代化産業遺産群に登録。

横浜公園は、日本人の使える公園としては日本最古の公園

横浜公園園内図

幕末の横浜開港当時には、オランダ公使から遊女町開設の要請でつくられたという港崎遊郭(みよざきゆうかく)がありました。
長崎の丸山遊郭を手本に、太田屋新田に安政6年(1859年)に設置された港崎遊郭ですが、慶応2年10月20日(1866年11月26日)の豚肉料理屋から出火した豚屋火事で焼失したため、慶應3年(1867年)に移転。
火事の2年前に居留民と幕府との間で交わされた『横浜居留地覚書』に「大火があった場合は再建しない」との条項があり、吉田新田に吉原遊郭を築いて移しています(遊郭はその後、高島町に移転して高島町遊郭、さらに永真遊郭街と変遷しています)。

港崎遊郭の跡地は公園にという居留地側の要求がありましたが、明治維新の動乱で遅れ、ようやく明治8年に土木技師で灯台設計でも知られるリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton)設計のもと、公園と公園から港(象の鼻波止場)へと直進する日本大通が建設されています。
馬車道などが整備されたのもこの時です。

横浜公園は、居留地に暮らす外国人(彼)だけでなく、日本人(我)も利用できる入会地だったことから「彼我公園」(ひがこうえん)と名付けられていました。

明治4年9月17日(西暦1871年10月30日)には横浜の居留地に住む外国人とアメリカ軍艦「コロラド号」の乗員との間で野球の試合が行なわれていますが、これが記録に残る国内での初の野球の試合(1871年10月31日とする説もあります)。
この時はまだ彼我公園が設計段階だったので、外人居留地運動場(クリケット場)の予定区画で実施されています。

公園内には外人居留地運動場(クリケット場)も設置され、明治29年5月23日に、日本で最初の野球の国際試合(旧制一高ベースボール部VS外人クラブ)が行なわれています。

公園内には日本庭園「彼我庭園」も整備

彼我庭園の門
彼我庭園の池

昭和4年に野球場が建設されていますが、これが横浜スタジアムの原型で、昭和27年に横浜公園平和野球場、昭和53年に横浜スタジアムが建設されています。

現在、横浜公園内には69品種約16万球のチューリップが植栽され、例年4月上旬〜下旬に見頃をむかえます。
また、園内には日本庭園の「彼我庭園」もありますが、明治42年に公園の管理が横浜市に移管された頃に作庭。
その後、米軍の接収で荒廃しましたが、横浜スタジアムの建設に合わせ再整備されたもの。
「第33回全国都市緑化よこはまフェア」の際に築かれた庭園の門には、横浜発祥のフランス瓦である「ジェラール瓦」(フランスの実業家・ジェラールが明治初期に現在の元町公園で生産した瓦で、日本初の西洋瓦)のレプリカが屋根にのっています。

公園内には昭和4年に立てられた「我国最古の公園」碑、ブラントンの胸像もあります。
また、彼我庭園内にある岩亀楼(がんきろう)の石灯籠は、港崎遊郭にあり、名主(なぬし)の岩槻屋佐吉が経営する遊女屋ゆかりの灯籠。
岩亀楼内は日本人用と外国人用に分かれ、羅紗緬(らしゃめん)と呼ばれる外国人専用の遊女が用意されていました(さらに羅紗緬に限って外国人の妾になることが許され、幕末には500人もの羅紗緬がいました)。

ブラントンの像
「我国最古の公園」碑
文化庁の登録記念物にも
横浜公園
名称 横浜公園/よこはまこうえん
所在地 神奈川県横浜市中区
関連HP 横浜市公式ホームページ
電車・バスで JR・横浜市営地下鉄関内駅から徒歩3分。みなとみらい線日本大通り駅から徒歩3分
ドライブで 首都高速横羽線横浜公園ランプからすぐ
駐車場 市営日本大通り地下駐車場(200台/有料)
問い合わせ 横浜市南部公園緑地事務所 TEL:045-671-3648
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

日本大通り

2018年1月30日

岩亀楼の石灯籠(横浜公園)

2018年1月30日

 

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