鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に幕府を開くにあたり、源頼朝(みなもとのよりとも)が行なった都市計画で、メインストリートとして造成されたのが海岸と鶴岡八幡宮を結ぶ若宮大路。参道を兼ねるため一の鳥居から三の鳥居まで途中3つの鳥居がありますが、二の鳥居から三の鳥居までは盛り土がされる段葛(だんかずら)です。
若宮大路は源頼朝の都市計画で造成
源頼朝は、海岸から鶴岡八幡宮に向けて3本の道を造成。中央にメインストリートの若宮大路、西に今大路(いまおおじ/今小路=寿福寺前から南側)、東に小町大路(こまちおおじ=筋替橋から材木座海岸)が通り、さらにそれを横断する横大路、大町大路、車大路で六大路を形成していました。
日本三大八幡宮に数えられる鶴岡八幡宮は、源頼朝が鎌倉入りした治承4年10月6日(1180年10月26日)直後の10月12日に由比ヶ浜にあった八幡宮を遷座したもの。
建久2年(1191年)には社殿を整え、関東の総鎮守として鎌倉の町造りの中心に据えたのです。
材木座海岸(和賀江の津)は、八幡宮社殿造営のための木材の揚陸地。
『吾妻鏡』の養和2年3月15日(1182年4月19日)の項に道を直進にして参道を造成した旨の記述があるので、鎌倉入りからすぐに都市計画に着手していたことがわかります(「養和二年三月大十五日乙酉。自鶴岳社頭。至由比浦。直曲横而造詣往道。」)。
さらに養和2年(1182年)初めに北条政子は2人目の子(幼名・万寿=2代将軍・源頼家)を懐妊。
その安産祈願で、源頼朝の陣頭指揮で道の造成を行なった旨の記述も記されています(而依御臺所御懷孕御祈故。被始此儀也。武衛手自令沙汰之給。)
北條時政など御家人が動員されて土木工事に従事し、道路幅員は10丈(30m)だったとされ、両脇に幅1丈・深さ5尺の濠を構えましたが、今も往時の幅員がそのままに残されているのです。
都市造りによって周辺の山の木々が伐採され保水力がなくなったため、雨後は道がぬかるむようになりました。
そこで土を盛った歩道を造り、同時に道幅が八幡宮に向かうに従い徐々に狭くなるようにと大軍進軍を阻む設計を取り入れたのです。
幅5間(9m)、高さ1尺5寸(45cm)の盛り土部分が今に残る段葛。
かつては一の鳥居から伸びていましたが、海軍の鎮守府が置かれた横須賀軍港への輸送用の鉄路として横須賀線の敷設(明治21年着工)で撤去されています(当初は平面交差で踏切がありました)。
一の鳥居から鶴岡八幡宮に向かうにつれて、道幅が徐々に狭くなるという構造は、大軍の進軍を阻むだけではなく、遠近法により、八幡宮が遠くに見えるように設計されたもの。
その後もたびたび改修が行なわれ、段葛に樹木が植栽されたのは明治中期以降のこと。
大正2年には桜も植栽されています。
さらに平成の大改修(平成26年〜平成28年)で路面は舗装され、桜が植え直され、桜の開花時には花見客で賑わいます。
若宮大路は、神奈川県道21号(横浜鎌倉線)ですが、段葛部分は今も鶴岡八幡宮の社地になっています。
また、「日本の道100選」にも選定されています(神奈川県内では山下公園通り・山手本通りが選定)。
若宮大路・段葛 | |
名称 | 若宮大路・段葛/わかみやおおじ・だんかづら |
所在地 | 神奈川県鎌倉市雪ノ下 |
関連HP | 鎌倉市公式ホームページ |
電車・バスで | JR鎌倉駅東口から徒歩10分 |
ドライブで | 横浜横須賀道路朝比奈ICから約5km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 鎌倉市観光課 TEL:0467-61-3884 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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