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外国人墓地資料館

外国人墓地資料館

神奈川県横浜市の横浜港を眺める高台、山手地区にある横浜外国人墓地。幕末の米黒船艦隊来航の際の軍人の埋葬が起源という墓地には、開港後の居留地などで亡くなった40数ヶ国の外国人約5000人が眠っています。そんな外国人墓地の入口にある入館無料のミュージアムが外国人墓地資料館で、館内では外国人墓地の歴史を紹介。

外国人墓地誕生の歴史、埋葬者を紹介

当初は、増徳院(現・横浜市南区平楽/開港当時は現在の元町プラザの場所にありました)の墓地だった場所に、「黒船」で知られるペリー艦隊「ミシシッピー号」のマスト上から誤って転落死した二等水兵(ペリーの艦長給仕)ロバート・ウィリアムズ(享年24歳)を嘉永7年(1854年)に埋葬したのが始まり。

幕府側は、長崎に埋葬地を確保してあり死体を浦賀経由で長崎に運ぶ案を提示しますが、ペリーは、ウェブスター島(現・横須賀港の埋め立て地となった夏島)に埋葬するように提示し、協議の末、横浜の増徳寺に隣接する丘の墓地が選ばれました(ロバート・ウィリアムズの墓は、後に下田・玉泉寺に移されています)。
その後、安政5年(1859年)、ロシア使節、東シベリア総督ムラヴィヨフの随員、モフェトとソコロフが横浜市中で殺害され、増徳寺近辺に仮埋葬されています。
こうして増徳院の墓地は、居留地の開設後の文久元年(1861年)、横浜外国人墓地となったのです。

横浜外国人墓地には、山手111番館、旧ベーリック邸(ベーリック・ホール)の設計で知られるJ・H・モーガン(Jay Hill Morgan)なども眠っています(大正期に建てられた横浜外国人墓地の正門もモーガンの設計)。
資料館では、外国人墓地の歴史、墓地に埋葬されたなかで、モーガンなど経歴などが判明している約300人資料を公開しています。

外国人墓地資料館
名称 外国人墓地資料館/がいこくじんぼちしりょうかん
所在地 神奈川県横浜市中区山手町96
関連HP 外国人墓地公式ホームページ
電車・バスで 横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅から徒歩3分、またはJR石川町駅から徒歩15分
ドライブで 首都高速横羽線横浜公園ICから約1.8km
駐車場 元町第一駐車場(90台/有料)など周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 外国人墓地資料館 TEL:045-622-1311/FAX:045-622-1311
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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