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北条高時腹切りやぐら

北条高時腹切りやぐら

神奈川県鎌倉市、北条氏の菩提寺だった東勝寺跡の北にあるのが、北条高時腹切りやぐら。元弘3年5月22日(1333年7月4日)の東勝寺合戦では、新田軍に追い詰められた鎌倉幕府第14代執権・北条高時は、東勝寺に籠城するも家臣とともに自刃していますが、その自刃場所と伝えられるやぐら(岩窟)です。

北条高時終焉の地

後醍醐天皇が笠置山(かさぎやま/現・京都府相楽郡笠置町)で鎌倉幕府倒幕を旗揚げしたことに呼応し、新田義貞(にったよしさだ)は、自領の上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)の生品明神社(生品神社)社頭で、150余りの将兵を集めて、鎌倉幕府倒幕の挙兵を行ないます。

鎌倉街道を南下するなかで沿線の反幕府方の将兵を集め、小手指原の戦い(こてさしがはらのたたかい/現・埼玉県所沢市)、分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい/現・東京都府中市)で勝利を収めます。
鎌倉特有の地形を活かし、七切通しで防戦をするという作戦でしたが、新田義貞は虚を突くかたちで海岸沿いに稲村ヶ崎を突破し、鎌倉に進軍します。
当時の北条高時の屋敷は現在の宝戒寺にありましたが、鎌倉の七切通しを封鎖して詰の城として機能したと思われる東勝寺に入って籠城戦を展開。
それが東勝寺合戦です。

『太平記』には、東勝寺に籠城した北条一族と家臣は、長崎高重、摂津道準、諏訪直性ら北条被官から順にそれぞれ切腹、最後に北条高時、外戚の安達時顕(あだちときあき)が自害したと記されています。

やぐらと呼ばれるのは、鎌倉特有の横穴式の納骨窟。
東勝寺旧跡の北にあるのが「北条高時腹切りやぐら」で、発掘調査では三つ鱗の入った瓦などが見つかっていますが、骨壺や遺骨は発掘されていません。

東勝寺での戦死者の遺体は、鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷の奥に葬られたという伝承があり、宅地開発の際に「元弘三年五月廿八日」の銘のある五輪塔が発掘され、東勝寺合戦の戦没者の初七日(しょなのか)の慰霊祭が行なわれたことが推測できます。

鎌倉幕府執権の屋敷は灰と化し、詰の城として機能した北条家の菩提寺・東勝寺も同時に焼け落ちたため、後醍醐天皇は、鎌倉幕府最後の執権となった北条高時に「徳崇大権現」(とくそうだいごんげん)という神号を下賜し、宝戒寺が建立されたのです。
鎌倉幕府が滅亡した5月22日に、宝戒寺では北条高時の慰霊のため、『徳崇大権現会・大般若経転読会』が行なわれています。

ちなみに、北条高時腹切りやぐらは、あくまでも参拝の地だということに留意し、マナーを守って参詣を。

北条高時腹切りやぐら
名称 北条高時腹切りやぐら/ほうじょうたかときはらきりやぐら
所在地 神奈川県鎌倉市小町3-11-38
電車・バスで JR・江ノ電鎌倉駅から徒歩15分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

東勝寺跡

鎌倉葛西ケ谷にある鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の菩提寺で、関東十刹(かんとうじゅっさつ)に数えられた東勝寺の跡地。栄西の弟子の退耕行勇(たいこうぎょうゆう)が鎌倉幕府第3代執権・北条泰時(御成敗式目を制定したことで有名)の命で開山。東

宝戒寺

北条氏最後の執権・北条高時(ほうじょう たかとき)が葛西ケ谷の東勝寺で自害した後、北条一族の霊を弔うため、建武2年(1335年)、鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏(発願は後醍醐天皇)によって建立されたのが宝戒寺(ほうかいじ)。鎌倉幕府2代執権の北

分倍河原古戦場

東京都府中市、鎌倉と北関東を結ぶ主要道路の通称「陣街道」沿いにある古戦場が、分倍河原古戦場(ぶばいがわらこせんじょう)。元弘3年5月15日〜5月16日(1333年6月27日〜6月28日)、新田義貞率いる反鎌倉幕府軍と、北条泰家率いる鎌倉幕府

 

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