高知県宿毛市、宿毛小学校のプール近くにあるのが野中兼山一族幽閉地。江戸時代初期の土佐藩家老・野中兼山は、港湾整備や新田開発などのインフラ整備に尽力しますが、過酷の労働への反発、さらには庶民の生活を圧迫し、怨嗟の念が高まって失脚。一族は宿毛に40年間幽閉されています。
野中兼山の遺児たちが40年間幽閉された地
山田堰を構築し香長平野の水田開発し、柏島石堤を築いて漁港の整備などを行なっていますが、土佐藩の中枢にも怨嗟があり、寛文3年(1663年)、失脚。
土佐山田(現・香美市)に蟄居しますが、3ヶ月後に病没。
遺族らは、六男・貞四郎(失脚した寛文3年に生誕)が40歳で死没し男系の後継が絶えた元禄16年(1703年)まで、40年にも及び宿毛の地にて幽閉され、矢来に囲まれた幽閉所より一歩も外に出ることが許されませんでした。
養母・よね、長男・清七、次男・欽六、五男・希四郎、三女・寛、四女・婉(えん)、五女・将、六男・貞四郎の8人が罪人として宿毛へ流され、男系が絶え、3人の女性が釈放されるまでの40年間、この地で幽閉生活を送っています。
そのなかで、娘の野中婉は、4歳から宿毛で暮らしていますが、文通によって儒学や詩歌、医学の指導を受け、元禄16年(1703年)、釈放されて土佐郡朝倉に移住し、医師として活躍しています。
ちなみに幽閉された宿毛でも荒瀬の川に「河戸の堰」を築いていますが、「♪ 雪やこおれ、あられやこおれ、荒瀬の川がとまれやこおれ」という労働歌が残されています。
凍てつく冬の川の中で工事が進行し、いっそ川が凍ればさすがの野中兼山も工事を続けさせないだろうというもので(「荒瀬の川がこおったら休め」と兼山が語っていたとも)、兼山が強いた過酷な労働がしのばれます。
土佐藩の石高を倍増させるという成果を上げながら、一族根絶やしという怨嗟を生んだのです。
蟄居後わずか3ヶ月で野中兼山は没していますが、政敵や庶民にとって、それでは怒りが収まらなかったということに。
野中兼山の養母・よねは宿毛の初代領主・山内可氏(やまうちよしうじ)の娘。
そして野中兼山の正妻・市は山内可氏の孫ということから、幽閉先が宿毛になったのだと推測できます。
野中兼山一族幽閉地 | |
名称 | 野中兼山一族幽閉地/のなかけんざんいちぞくゆうへいち |
所在地 | 高知県宿毛市中央2-1-2 |
関連HP | 宿毛市立宿毛歴史館公式ホームページ |
ドライブで | 高知自動車道中土佐ICから約86km |
問い合わせ | 宿毛歴史館 TEL:0880-63-5496/FAX:0880-63-2618 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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