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野中兼山像

野中兼山像

高知県長岡郡本山町の帰全山公園(きぜんざんこうえん)に立つのが、野中兼山像(のなかけんざんぞう)。高知平野の水田開発、築港整備などで辣腕を発揮した高知藩の執政(家老)、野中兼山の銅像が帰全山公園に立つのは、公園に野中兼山の母・秋田万(あきたまん)の墓があるから。

野中兼山の母・秋田万の墓所に築かれた銅像

江戸時代初期、本山町は野中兼山の領有する土地で、慶安4年4月4日(1651年5月23日)、66歳でこの世を去った母・秋田万を、儒教式に直方体の棺(ひつぎ)に入れて土葬したもの。

農民に過酷な土木作業を強いて、後に失脚した野中兼山らしく、墓穴は、1000人という地元の人々によって掘られ、穴の壁も石で築かれた立派なものでした。
寛文3年(1663年)、それまでの過酷な使役などからの反発もあり、ついに失脚。
野中兼山自身は、26年の歳月を費やして完成したという、思い入れが強い山田堰(現・香美市土佐山田町)の工事指揮所近くの「明夷軒」に蟄居しましたが、3ヶ月後に吐血して死去。
さらに、一族も男系の子孫が絶えるまで宿毛に幽閉という過酷な運命が待ち構えていました。

水田を開き、石高を増すなど、高知藩発展に尽力した野中兼山ですが、一族に至るまでの過酷な仕打ちといい、その評価は大いに分かれるところとなっているのです。

銅像は、地図を広げている野中兼山の姿で、制作はユニークな陶彫を中心として国際的に活躍した彫刻家・辻晋堂(鋳造:美術鋳造家・高原四郎)。
高知県内各地に建立される「土佐偉人銅像」のひとつに数えられています(全16ヶ所)。

周辺には、昭和27年に竣工した兼山廟、野中兼山の実母・秋田夫人の墓、「モンベルアウトドアヴィレッジ本山」(モンベルストア、コテージ、土佐れいほくの湯、レストラン、ビジターセンター)などがあります。

ちなみに、本山町にある大原富枝文学館は、野中兼山とその娘・娘・野中婉(土佐藩の女医)の話を描いた『婉という女』で知られる大原富枝の文学館。
大原富枝は、大正元年、高知県長岡郡吉野村(現・本山町)に生誕しています。

野中兼山像
名称 野中兼山像/のなかけんざんぞう
所在地 高知県長岡郡本山町本山(帰全山公園内)
関連HP 本山町公式ホームページ
ドライブで 高知自動車道大豊ICから約10km
駐車場 帰全山公園駐車場(6台/無料)
問い合わせ 本山町中央公民館 TEL:0887-76-2084
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

野中兼山邸跡

高知県香美市土佐山田町にある江戸時代初期の土佐藩執政(家老)・野中兼山の邸跡が、野中兼山邸跡。同じ土佐山田町の山田堰築造、柏島石堤を構築するなど、積極的なインフラ整備が庶民の生活を圧迫し、怨嗟の声が高まって失脚。別宅「明夷軒」に蟄居し、3ヶ

野中兼山一族幽閉地

高知県宿毛市、宿毛小学校のプール近くにあるのが野中兼山一族幽閉地。江戸時代初期の土佐藩家老・野中兼山は、港湾整備や新田開発などのインフラ整備に尽力しますが、過酷の労働への反発、さらには庶民の生活を圧迫し、怨嗟の念が高まって失脚。一族は宿毛に

柏島石堤

高知県の西端、高知県幡多郡大月町の柏島にある石造りの護岸が、柏島石堤。江戸時代初期、土佐藩の執政(家老)・野中兼山が7年の歳月を費やして築いた石造防波堤で高知県の史跡。柏島の島民は石堤の横に野中兼山神社を建立し、野中兼山の偉徳を讃えています

山田堰跡

高知県香美市土佐山田町を流れる一級河川・物部川(ものべがわ)に築かれた堰(ダム)の跡が、山田堰跡(やまだぜきあと)。寛永13年(1636年)、土佐藩の執政(家老)となった野中兼山は、山田堰の建設などの物部川の治水を行ない、舟入、中井、上井の

大原富枝文学館

高知県長岡郡本山町本山にあるミュージアムが、大原富枝文学館。大正元年、高知県長岡郡吉野村(現・本山町)に生まれた小説家で芸術院会員だった大原富枝。生原稿など貴重な資料の展示に加え、代表作『婉という女』(第14回毎日出版文化賞、第13回野間文

帰全山公園

高知県長岡郡本山町にある高知県立白髪山公園の一部となるのがが、帰全山公園(きぜんざんこうえん)。4月中旬〜5月初旬頃には、シャクナゲが咲き誇り別名をシャクナゲ公園とも。江戸時代初期の高知藩の執政(家老)を・野中兼山が母・秋田万のために築いた

 

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