京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山に鎮座する古社、吉田神社。貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として、奈良の春日大社から四座の神々を勧請して創建し、平安京における藤原氏の氏神として尊崇されました。室町末期に吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点になり、明治維新まで神道の権威となった社です。
室町時代〜江戸時代には日本の神道の中心的存在だった!
鎌倉時代以降は、卜部氏(うらべうじ)が神職を相伝し、永和4年・天授4年(1378年)、足利義満が室町殿(室町第)に移ったことに伴い、吉田兼熈(よしだかねひろ)がそれまで名乗っていた室町を憚って、社務を務める吉田に家名を改めています。
『徒然草』の作者・吉田兼好(よしだけんこう)も、父・兼顕は吉田神社の神職で本来の名は卜部兼好(うらべかねよし)。
文明年間(1469年〜1487年)に、吉田兼倶(よしだかねとも)が両部神道(真言宗の立場による神仏習合思想=日本の神々は仏の垂迹とする思想)、山王神道(山王権現は釈迦の垂迹とする天台宗の思想)、さらには伊勢神道(神仏習合思想に逆らい日本を神国とする最初の神道理論)に対抗して吉田神道(唯一神道)を創始します。
様々な神道の流派を統一し、さらには室町幕府の権勢を背景に、神道界の権威への道を歩みます。
吉田兼倶は、「神祇管領長上」と名乗り、全国の神社を支配し、神位・神職の位階を授与する権限をも獲得したのです。
江戸時代になってもその権威は衰えず、寛永5年(1665年)、江戸幕府が発布した「諸社禰宜神主法度」(しょしゃねぎかんぬしはっと)で、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)を付与されています。
これは、全国の神社に対し、社領の売買禁止などのほか、吉田神道を正統としてその統制に服することを義務づけたもの。
家康の埋葬方法に関しても、吉田神道と、天海大僧正の主張する天台宗的・山王神道と対立し、結果、天海の主張が取り入れられ、東照大権現という神号で山王神道で祀られましたが、寛永年間には、再び吉田神道(唯一神道)が盛り返したことがわかります。
八角形の斎場所大元宮は国の重要文化財
平安京の守護神として機能した吉田神社は、創建当初から厄除け開運の神様として知られ、厄除詣発祥の社といわれています。
境内南にある竜沢池(たつざわのいけ)は、奈良の猿沢池を模して築かれたもの。
猿沢池は、奈良・興福寺が行なう「放生会」の放生池。
興福寺は春日大社との一体を主張し、神仏習合の中世には春日大社の別当(管理する寺)となっていました。
末社となっている斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)は、平安時代編纂の『延喜式神名帳』に記載される全国の式内社全3132座の天神地祇八百万神を祀る社で、現存する八角形のユニークな建物は慶長6年(1601年)築と推測され、国の重要文化財に指定。
大元宮(だいげんぐう)は、吉田神道の教義では、宇宙軸を現すもの。
始まりの神(虚無大元尊神)を中心に祀り、そこから生まれ来る八百万(やおよろず)の神々を祀ることで、日本全国のすべての神様が祀られていることになるのです。
つまりはパワースポット中のパワースポットに。
通常は、中門からの参拝しますが、正月三が日と『節分祭』、毎月1日に限り、大元宮の本殿や東西諸神社などが特別に参拝可能となっています(拝観無料)。
菓子の神(菓祖)・田道間守命(たじまもりのみこと)を祀る菓祖神社、吉田兼倶(神龍大神)を祀る神龍社、吉田神社の創始者で四条流庖丁道の創始者とされる藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)を祀る山蔭社などの末社も有名です。
本殿などの社殿9棟は京都府の文化財に指定されています。
吉田神社 | |
名称 | 吉田神社/よしだじんじゃ Yoshida Jinja Shrine |
所在地 | 京都市左京区吉田神楽岡町30 |
関連HP | 吉田神社公式ホームページ |
電車・バスで | 京阪電車出町柳駅から徒歩20分 |
ドライブで | 名神高速道路京都南ICから約10km |
駐車場 | 参拝者専用駐車場(20台/無料) |
問い合わせ | 吉田神社 TEL:075-771-3788/FAX:075-771-2877 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag