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丹波国分寺跡

丹波国分寺跡

京都府亀岡市千歳町国分にある、天平13年(741年)、聖武天皇の詔(みことのり)で諸国に建立された国分寺)(正式名は金光明四天王護国之寺)のひとつで、丹波国(たんばのくに)の国分寺の跡が丹波国分寺跡。丹波国の国府の遺構はまだ見つかっておらず、丹波の古代を知るための貴重な遺跡です。

七重塔の塔跡には17個の礎石が現存

丹波国分寺の後継寺院は江戸時代中期の再興

律令制以前は後の但馬国(たじまのくに)、丹後国も含んだ広大な一帯が丹波でしたが、7世紀後半に但馬国、和銅6年(713年)に丹後国が分立し、現在の「三丹」が誕生。
丹波国には、亀岡盆地、福知山(由良)盆地、篠山盆地がありますが、行政の中心で国府、国分寺、国分尼寺、一之宮(出雲大神宮)が置かれたのは、平城京(奈良)にも近い亀岡盆地でした。

丹波国分寺跡では、昭和57年度から5年間にわたる発掘調査が行なわれ、金堂、七重塔、中門、僧房、鐘楼などの遺構が発見され、西に金堂、東に塔を配し、取り囲むように回廊が巡らされた法起寺式伽藍配置だったことが判明しています。
寺域は南北243m、東西248mという広大なもので、塔跡には、17個の礎石が現存。

建立された正確な年代は判明していませんが、亀岡市教育委員会による発掘調査で、奈良時代の終わり頃の瓦が出土し、天平13年(741年)の国分寺建立の詔からしばらく時を経てから建てられ始めたと推測されています。
平安時代編纂の『延喜式』に丹波国分寺造寺料として稲4万束を充当とあるので、平安時代になっても寺の建設が続いていたことがわかります。
9世紀初頭までに建設されたと推測される唐招提寺金堂の軒瓦(のきがわら)として使われたものと同じ型枠で作られた瓦が出土し、平安京の都が移された後にも、朝廷の援助を受け、ようやく寺が完成したのです。
このことは、丹波国分寺、丹波国府が山陰道沿いの重要拠点だったことを証明しています。


かつての寺域には、江戸時代に再興した後継寺院の浄土宗の丹波国分寺が建っていて、本堂の場所が、かつての講堂のあった場所。
寺伝などによれば、鎌倉時代後半に伽藍を焼失、その後、戦国時代末期、明智光秀軍の兵火により焼失し荒廃しています。
寺の山門は亀山城の雷門に、また毘沙門天は亀山城内に鎮守されたと伝わっています。

現存する丹波国分寺の本堂、山門、鐘楼は、護勇比丘(ごゆうびく)による再興時、安永3年(1774年)から9年の間に再建されたもの。
丹波国分寺跡として国の史跡になっています。

丹波国分寺の西方400mほどの地からは、同時代の金堂や講堂を備えた寺跡が発見され、御上人林廃寺跡(おしょうにんばやしはいじあと)と呼ばれています。
丹波国分寺で使われた瓦と同じものが出土していることから、ここが丹波国分尼寺跡だと推測でき、国分寺と国分尼寺の両方の存在が証明された貴重な例となっています。

丹波国分寺(丹波国分寺跡)は、京都の撮影所に近いということもあって、平成27年放送のNHK連続テレビ小説『あさが来た』、テレビ時代劇『水戸黄門』のロケにも使われています。

本堂の建つ部分が講堂の跡
丹波国分寺跡
名称 丹波国分寺跡/たんばこくぶんじあと
所在地 京都府亀岡市千歳町国分桜久保25
関連HP 亀山市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR亀岡駅から京阪京都交通バスで8分、国分下車、徒歩5分
ドライブで 京都縦貫自動車道亀岡ICから約4.5km
問い合わせ 亀岡市社会教育課 TEL:0771-25-5068
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

出雲大神宮

京都府亀岡市にある古社で、丹波国一之宮が出雲大神宮(いずもだいじんぐう)。平安時代編纂の『延喜式神名帳』に記載の式内社で、平成21年には社殿創建1300年を迎えています。祭神は大国主神(おおくにぬしのかみ)と縁結びの神様・三穂津姫命(みほつ

丹波国分尼寺跡(御上人林廃寺跡)

京都府亀岡市河原林町にある古代寺院の跡が御上人林廃寺跡(おしょうにんばやしはいじあと)。廃寺跡の東400mほどのところに丹波国分寺の遺構が発見され、その遺構からのものと同じ瓦が出土しているので丹波国分尼寺跡(丹波国の法華滅罪之寺跡)だと推測

 

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