日本三大怨霊(2)平将門 

関東では有名な平将門の乱。西の藤原純友の乱とともに、平安時代に朝廷を揺り動かした大事件ですが、平将門は新皇(しんのう)を名乗って東国に独立した政権を築こうとしたため、朝敵の扱いに。京の七条河原に晒し首という、日本では初の獄門となった武将で、当然、その怨念は危惧されました。

東京では神田明神、築土神社の祭神に

東京・大手町にある平将門の首塚

発端:天慶2年(939年)、武蔵国へ赴任した権守(ごんのかみ=国司の代理)・興世王(おきよおう)と源経基(みなもとのつねもと=清和源氏の祖、皇族出身ながら武蔵介として武蔵国に赴任)は、検注(けんちゅう=近江八幡が土地の調査)を行ないますが、在地の豪族で足立郡司・武蔵武芝(むさしのたけしば)は、国司が赴任する前の調査は前例がないと拒否。
源経基は、私兵を引き連れて、武蔵武芝を襲撃、これを聞いた平将門は仲介に乗り出しますが、興世王との酒宴の席を源経基の手勢が襲撃、興世王は京へと逃げ帰ります。
逃げ帰った興世王は、将門・興世王・武芝が謀反を共謀していると伝えますが、将門の無実は認められます。
ところが将門は、天慶2年(939年)に挙兵し、常陸国府を占領、その後も関東の国府を武力で占領し、新皇を名乗って東国に政権の確立を試みます。
非業の死:天慶3年(940年)、常陸大掾・平貞盛(たいらのさだもり)は、叔父・藤原秀郷の協力を得て、手薄となった平将門を攻め、飛んできた矢が将門の額に命中し討ち死に。
将門の首は平安京にて晒し首となり、一族郎党も皆殺しに。
日本史では初となる獄門(晒し首)となりました。
怨霊の仕業とされた事件:七条河原に晒された首は、何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、身体をもってこいと口走ったと伝えられています(『太平記』)。
さらし首は関東を目指して空高く飛び去り、落下したという場所に将門塚(東京都千代田区大手町)が築かれています。
多くの話は歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられる過程で、怨念化されたものだと推測できます。
神格化:神田明神の三ノ宮の祭神は平将門命(たいらのまさかどのみこと)で、延慶2年(1309年)に祀られていますが、当時関東に疫病が流行し、それが将門の祟(たたり)と信じられていたから。
千代田区九段の築土神社(つくどじんじゃ)は、平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)が安置されたと伝わる社で、将門信仰の中心でしたが、明治政府により将門は相殿に格下げとなっています。
岐阜県大垣市の御首神社(みくびじんじゃ)は、平将門の神霊が祭神。
関東に戻ろうと京を飛び立った首が落ちた地に創建したと伝えられています。

日本三大怨霊(2)平将門 
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