那須岳(三本槍岳)の北、旭岳(赤崩山/標高1835.2m)を源流に、福島県中通り(須賀川市、郡山市、福島市)を北に流れ、阿武隈山地を抜けて宮城県岩沼市と亘理町(わたりちょう)で太平洋に流れ出る、東北第2の河川が阿武隈川(あぶくまがわ)。幹川流路延長は239kmで、日本第6位の長大な河川です(流域面積は国内11位)。
江戸時代には東廻り航路の起点に
寛文4年(1664年)、米沢藩4代藩主・上杉綱憲(うえすぎつなのり=吉良義央の子で上杉家に養子入り)の家督相続時に信夫郡と伊達郡は幕府に召し上げられて天領に。
それを契機に、天領米(御城米)の運搬のために江戸商人・渡辺友以による阿武隈川の河川改修(福島〜河口・荒浜の川ざらい)が行なわれ、長良川で使われる小鵜飼船を導入しての舟運が始まっています。
寛文11年(1671年)には河村瑞賢(かわむらずいけん)が阿武隈川の河川改修とともに阿武隈川河口・荒浜から本州沿いに南下、伊豆・下田で風待し、南風に乗って江戸湾に入るという東廻り航路を開拓しています。
つまり、天領米(御城米)輸送の阿武隈川は、東廻り航路の起点となったのです(同様に御城米搬出の最上川は、翌年、西廻り航路の起点となっています)。
江戸が人口100万人を超える世界最大級の巨大消費都市となったことで、米沢藩など諸藩は年貢米や買米を江戸の市場に輸送し、藩財政を支えようとしたのです。
米沢藩は荒浜に江戸廻米のための蔵を建て、千石船に積み変えられて江戸に送られました。
河口部には、松島湾と阿武隈川を結ぶ運河として伊達政宗が建設を命じた貞山運河(木曳堀)が伸びています。
明治23年の東北本線が盛岡駅まで延伸したことで、舟運は役割を終えています。
阿武隈河川の川名は、平安時代の延長5年(927年)に完成の『延喜式』に「安福麻」、鎌倉時代に順徳天皇が著した歌論書『八雲御抄』(やくもみしょう)に「合曲」、そして鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に「遇隅」と記されています。
江戸時代には「逢隅」、「青熊」、「大熊」などと呼ばれていました。
阿武隈川の下流部が、阿武隈山脈の突端に阻まれ、大きく屈曲することが語源ともいわれていますが定かでありません。
福島県二本松市から福島市にかけては、急流で谷も狭くなっています。
阿武隈川は暴れ川でもあり、本流には東北電力の蓬莱ダム(昭和13年完成、近代土木遺産)、信夫ダム(昭和14年完成)が、そして国土交通省の阿武隈大堰(可動堰が築かれています)。
福島県須賀川市と玉川村を流れる部分では、阿武隈川本流唯一の滝、乙字ヶ滝(「日本の滝百選」選定/落差6m、幅100m)が懸かかり、松尾芭蕉が『奥の細道』途中に「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」と詠んだといわれています。
舟運の歴史を今に伝えるのは、宮城県丸森町の「阿武隈ライン舟下り」で、阿武隈川の渓谷4kmを往復しています。
ちょうど阿武隈川が阿武隈高地にぶつかり、屈曲している場所です。
阿武隈川源流(旭岳)|福島県西郷村
阿武隈川屈曲(阿武隈ライン舟下り)|宮城県丸森町
阿武隈川河口|宮城県亘理町・岩沼市
阿武隈川 | |
名称 | 阿武隈川/あぶくまがわ |
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