宮崎県美郷町の旧南郷村には百済(くだら=古代の朝鮮半島にあった国)滅亡時に王族が移り住んだという伝承が残されています。天智2年8月(663年10月)、白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れた後に、この美郷町に落ち延びたという伝承があり、それを活かし、日韓交流のシンボルとして百済の館が建てられています。
旧南郷村は百済王族亡命の地!?
7世紀に滅亡した百済の王族・遺民は大和王朝を頼って奈良地方に逃れますが、朝廷内の動乱で再び九州へと逃亡。
その途中、瀬戸内で時化に遭い、日向の国に漂着、禎嘉王(ていかおう)らは美郷町南郷地区、長男の福智王(ふくちおう)らは木城町へ移り住んだという伝承です。
百済の館の建物は、百済の最後の都となった韓国の古都「扶餘」(プヨ)の王宮跡に建っていた国立扶餘博物館(1993年金城山に移転)の客舎をモデルに、日韓交流のシンボルとして、韓国大使館や総領事館の協力を受け原寸大で復元したもの。
館内には百済時代の国宝・重要文化財のレプリカを展示しています。
同じ南郷区にある神門神社(みかどじんじゃ)は養老2年(718年)の創建で禎嘉王を祀る神社、塚の原古墳は禎嘉王の墳墓と伝えられています(ただし築造は6世紀後半と推測され、百済滅亡の7世紀と一致しません)。
神門神社には王族の遺品と呼ばれる銅鏡24面(うち1面は正倉院と同じ唐花六花鏡)が現存すること、神門神社本殿に平城京の発掘から確認ざれた伝統技法が今に残されているなど、朝鮮半島や大和朝廷との密接な関係も裏付けられています。
さらに王族親子(禎嘉王と福智王)対面の祭りと伝わる『師走祭り』も文化庁の調査から、極めて古い形態を残す祭りであることが判明したのです。
そうした伝承と歴史的な遺物を背景に、過疎化が進む旧南郷村で昭和61年に始まったのが「百済の里づくり」。
調査団を百済最後の都、扶飴に派遣し、南郷村に伝わる百済伝説や、文化財を韓国側からの目で検証するということも行なわれ、地域活性のシンボルとして百済の館が建てられたのです。
毎年ゴールデンウィークには『百済の里春祭り』が開催されています。
百済の館 | |
名称 | 百済の館/くだらのやかた |
所在地 | 宮崎県東臼杵郡美郷町南郷区神門62-1 |
関連HP | 美郷町公式ホームページ |
電車・バスで | JR日向市駅から徒歩すぐの都町から宮崎交通バス神門行きで1時間15分、百済の館前下車、徒歩すぐ |
ドライブで | 東九州自動車道日向ICから約40km |
駐車場 | 200台/無料 |
問い合わせ | 西の正倉院管理棟 TEL:0982-59-0556 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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