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光福寺(北越戊辰戦争長岡藩本陣跡)

光福寺(北越戊辰戦争長岡藩本陣跡)

新潟県長岡市中心部から南に約4km、摂田屋地区にある寺が光福寺。北越戊辰戦争時の明治元年・慶応4年(1868年)4月26日、ここに長岡藩の本陣が置かれました。長岡藩の軍事総督を務めた河井継之助は、新政府軍側との交渉(小千谷談判)が決裂した翌5月3日、諸隊長を光福寺に招集し、開戦の演説を行なったといわれています。

河井継之助が開戦の決意を演説した長岡藩本陣の跡

5月2日に河井継之助は、新政府軍の軍監・岩村精一郎(土佐藩士)と小千谷の慈眼寺で会談しています。
河井継之助は、長岡への侵攻の中止と長岡の獨立特行、会津藩を説得すると主張しますが、岩村精一郎はこれを退け、会談はわずか30分ほどで決裂。
その後も河井継之助は粘り強く、会見を求めますが、岩村精一郎はこれを拒否して、長岡藩は主戦へと傾きます。

岩村精一郎が拒否した理由は、「時間稼ぎであろう」と判断。
河井継之助が山縣有朋か黒田清隆との会談を希望するも、これも拒絶しています。
このことから岩村が当時24歳という若さで、狭量だったとする意見や、「キョロマ」(軽率で無思慮)という長州藩側の評価もあります。

河井継之助が開戦を決意するということは、同時に、東北諸藩で結成されていた奥羽列藩同盟への加盟を意味します。
河井継之助は小千谷談判の時、41歳ですが、他の藩との交渉経験はなく、外交手腕も未知数でした。

開戦後の趨勢は、軍事力をみれば明らかでした。
明治元年・慶応4年5月19日、信濃川を渡河して守備が手薄な長岡城下を突くという新政府軍の奇襲で長岡城が落城します。
その結果、光福寺にあった長岡藩軍(奥羽列藩同盟軍)本陣は、加茂に移されています。

光福寺は、室町時代の後期・明応年間の開基といわれる浄土真宗本願寺派の古刹で、山号は青木山。
本尊は阿弥陀如来。
寺はもともと青木山にありましたが、寛文4年(1664年)、当地に移されています。

光福寺(北越戊辰戦争長岡藩本陣跡)
名称 光福寺(北越戊辰戦争長岡藩本陣跡)/こうふくじ(ほくえつぼしんせんそうながおかはんほんじんあと)
所在地 新潟県長岡市摂田屋1-13-35
関連HP 長岡市公式ホームページ
電車・バスで JR宮内駅から徒歩16分
ドライブで 関越自動車道長岡ICから約10.2km。または、長岡南越路スマートICから約7.4km。北陸自動車道中之島見附ICから約14.6km
駐車場 あり/無料
問い合わせ 光福寺 TEL:0258-34-2346
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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