長野県松本市、穂高連峰の主峰・奥穂高岳(3190m)から東南にのびる吊尾根でつながっているのが前穂高岳(3090.5m)。上高地の河童橋などから穂高を眺める際に、岳沢の右上にそびえるのが前穂高岳で、岳沢小屋から重太郎新道が結んでいます。大喰岳(おおばみだけ)に次いで国内11位の高峰。
日本の近代アルピニズムを支えた名峰
上高地に近いという立地から、明治26年、測量官の館潔彦(たてきよひこ=263もの一等三角点を選点した陸地測量師)が山案内人・上條嘉門次(かみじょうかもんじ)の案内で穂高連峰では初となる前穂高岳に登頂。
直後にウォルター・ウェストン(Walter Weston)も前穂高岳に登頂し(前年に槍ヶ岳登頂)、日本の近代登山は、この前穂高岳から幕を開けています。
館潔彦は、この時、前穂高岳山頂付近で18mほど滑落して負傷し、島々谷川沿いで休養中、ウォルター・ウェストン一行とすれ違い、「奇跡的に命拾いをした政府の調査官」(『日本アルプスの登山と探検』)と記されています。
最高標高の一等三角点は南アルプスの赤石岳で、前穂高岳は2番目の高所にある一等三角点です(北アルプスでは最高所)。
館潔彦が登頂した時代は、山名も地元からの聞き取りなので、誤記もあり、前穂高岳につけられた一等三角点の名前は「穂高岳」、なぜか西穂高岳の三等三角点の名称が「前穂高」になっています。
鵜殿正雄は、明治38年に前穂高岳に登り、さらに明治42年、前穂高岳から吊尾根で奥穂高岳へ、北穂高岳から大キレットを越えて槍ヶ岳にまで至る大縦走を成功させています(大キレットの通過にロープを使っています)。
大正5年発行の『日本アルプス登山案内』(矢澤米三郎・河野齢蔵共著、岩波書店発行)にも穂高連峰の登山道は、前穂高岳〜奥穂高岳〜北穂高岳〜槍ヶ岳の縦走路しか記載がなく、いかに秘境地帯だったかがよくわかります(白出のコルに穂高岳山荘の前身となる石室を今田重太郎が築くのが大正13年)。
上高地から前穂高岳へのルートも、「傾斜急峻にして岩石崩壊し易く、其險難なること比類なし」というものだったので、昭和26年、穂高岳山荘の今田重太郎が重太郎新道を開削し、ようやく一般登山者を迎え入れることができるようになったのです。
新道建設のベースにした小さな平地(前穂高岳との分岐点)には紀美子平の名が付いていますが、これは、23歳という若さで夭逝した今田重太郎の姪で、穂高岳山荘のアイドルだった姪の名前です(今田重太郎は、妻と5歳になる娘その平地に残し、2週間で新道を開削しています)。
前穂高岳山頂から横尾谷に向かって北尾根が伸び、二峰(Ⅱ峰)、三峰(Ⅲ峰)、四峰(Ⅳ峰)、五峰(Ⅴ峰)、五六のコル、六峰(Ⅵ峰)、七峰(Ⅶ峰)、八峰(Ⅷ峰)、最低のコル、屏風のコル(最低のコル、屏風のコルは涸沢と徳沢を結ぶ登山道・パノラマコースが通過)、屏風の耳、屏風ノ頭(びょうぶのあたま/2565.6m)と岩峰が連続します。
また、前穂高岳の東直下、標高2420mには奥又白池(おくまたしろいけ)があり、登山道(熟達者向)が通じています。
前穂高岳東壁を目指すクライマーの起点で、井上靖の小説『氷壁』にも登場する池で、日本の近代アルピニズムは、大学の山岳部などによって、この前穂高岳から屏風岩に続く岩峰のルート開拓で、技術を磨いたのです。
井上靖の小説『氷壁』のモデルとなったナイロンザイル切断事件も、昭和30年1月2日、前穂高岳東壁で発生しています。
前穂高岳 | |
名称 | 前穂高岳/まえほたかだけ |
所在地 | 長野県松本市安曇上高地 |
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