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文永の役新城古戦場(新城の千人塚)

文永の役新城古戦場(新城の千人塚)

長崎県壱岐市勝本町城内にある、元寇の際、元軍と日本軍と激闘を展開した古戦場が文永の役新城古戦場(ぶんえいのえきしんじょうこせんじょう=新城の千人塚)。壱岐島は、博多とともに元軍との激しい戦闘が展開した地で、とくに文永11年(1274年)の文永の役に関する伝承地が数多く残されています。

元寇では、現・勝本町新城一帯が激戦地に

元軍上陸の地、さらに勝負坂、唐人原(とうじんばる)、射場原(いやんばる)、射矢本(いやもと)、勝負本、対陣原(たいのはる)という地名、合戦があったとされる高麗橋、鯛の原で、一帯が戦場であることから、激戦地と称される場所に文永の役新城古戦場の碑が立てられています。

千人塚は、少弐公民館の近くの「少弐の千人塚」(しょうにのせんにんづか=弘安の役・瀬戸浦古戦場近く)、「浦海海岸の千人塚」(うろみかいがんのせんにんづか=元軍上陸地3ヶ所のうちのひとつ、文永の役の戦死者を葬った場所)、そして新城の千人塚など、壱岐島内に6ヶ所確認されています。

文永11年10月14日(1274年11月13日)、元軍は浦海海岸に上陸し、守護代・平景隆(たいらのかげたか)は、百余騎という手勢で唐人原で元軍を迎え撃ちますが大敗。
壱岐守護代の館・樋詰城(ひのつめじょう=現在の新城神社)で全滅しています。

日本軍の主力部隊が展開した博多に比べ、壱岐・対馬は守備力も小さく、元軍は上陸後、暴虐の限りを尽したと伝えられています(壱岐島民で生き残ったのは数十人とも)。

数多くの伝承地のうち、もっとも代表的な場所が、この文永の役新城古戦場(新城の千人塚)で、長崎県の史跡になっています。

島の北部を走る長崎県道23号(勝本石田線)沿いにあるので、ドライブ途中などにぜひお立ち寄りを。

文永の役新城古戦場(新城の千人塚)
名称 文永の役新城古戦場(新城の千人塚)/ぶんえいのえきしんじょうこせんじょう(しんじょうのせんにんづか)
所在地 長崎県壱岐市勝本町新城東触1187-1
関連HP 壱岐市観光連盟公式ホームページ
ドライブで 芦辺港から約5km
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

祖原元寇古戦場跡

文永11年10月20日(1274年11月19日)、元軍は博多湾(現・福岡県福岡市)に襲来し、主力部隊となる蒙古・漢軍は百道原に上陸、祖原、鳥飼、赤坂の一帯が激戦の地となりました。元軍の一部隊が陣を構えた古戦場のひとつが祖原山(標高33m)。

志賀島・蒙古塚

福岡県福岡市東区にある陸繋島の志賀島(しかのしま)。古代、大陸への玄関口で、金印(漢委奴国王印)出土で有名ですが、鎌倉時代の元寇(蒙古襲来)では、元軍と日本軍(鎌倉幕府軍)との激戦地にもなっています。蒙古塚は、戦死した蒙古(元軍)兵士供養の

 

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