岡山県倉敷市児島にある「塩田王」野﨑武左衛門が、天保9年(1838年)に14年をかけて築いた大邸宅が旧野﨑家住宅。約1万平方メートルという広大な敷地には、江戸末期から明治中期にかけて建てられた12棟が旧状よく保存され、製塩用具を展示する野﨑家塩業歴史館などとともに一般公開されています。
日本屈指の塩田地主だった野﨑家の大邸宅
野﨑武左衛門(のざきぶざえもん)は、寛政元年8月1日(1789年9月19日)、昆陽野貞右衛門(このやさだえもん)の長男として児島郡味野村に生誕。
小倉足袋の製造販売では成果を上げることができず、大庄屋・中島富次郎の支援を得て、塩浜を築きますが当初はうまくいきませんでした。
文政13年(1830年)、藩の融資を得て味野村・赤﨑村の沖に48haの塩田を築き(野﨑浜と命名)、文久2年(1862年)までに瀬戸内海に150haの塩田を完成。
日本屈指の塩田地主へと成長、「塩田王」と呼ばれるまでになったのです。
塩田のあった野﨑浜は、味野村・赤﨑村から一文字をとって名付けられたもので、昆陽野姓から野﨑姓へと転じたのも文政13年(1830年)の塩田完成で。
天保4年(1833年)には大庄屋を命ぜられ、天保9年(1838年)に大邸宅を完成。
弘化4年(1847年)には苗字帯刀・五人扶持を許されています。
旧野﨑家住宅は、敷地面積3000坪、建物延床面積1000坪。
桁行14間の長屋門と貴賓の出入り口となる御成門を持ち、中央には表書院、主屋、その北側には土蔵群が建ち並ぶ豪壮なもの。
5つもの茶室や児島の巨石を配した枯山水の庭園もあり、建物と庭園が創建当時のままに残されている貴重なものとなっています。
土蔵群の一部は展示館として使われ、これが野﨑家塩業歴史館として機能。
野﨑家の歴史や功績、製塩に使用していた道具類、塩田製塩時代の写真などが展示されています。
野﨑武左衛門が始めた製塩事業は、現在、倉敷市に本社を置くナイカイ塩業(昭和9年設立の野崎事務所が前身)として受け継がれ、備前岡山の海水のみを使用した味の素「瀬戸のほんじお」、さらに味の素の「アジシオ」なども手掛けています。
児島駅の海側に建つ、旧野﨑浜灯明台は、文久3年(1863年)、野﨑武左衛門が築いたもの。
江戸時代には、入浜式塩田で製塩
赤穂の塩浜は奈良時代の記録があるので、瀬戸内海の製塩は長い歴史があることがわかります。
当時の塩田製塩法は、太陽の日差しや風で砂浜の海水を蒸発させ、濃縮して塩を作る方法。
水深が浅いほど乾燥は早くなるので、広大な塩田が必要となるのです。
江戸時代に築かれた瀬戸内海の塩田は、入浜式塩田と呼ばれるもの。
夜明けとともに、浜に砂を撒き、潮が満ちてくると砂が海水に浸り、潮が引いて水分が乾くと塩の結晶が砂粒につきます。
この水分が蒸発して塩分の付いた砂を集め、壺に入れ、壺に海水をかけて、濃い海水(かん水)を採ります。
このかん水を濾過して不純物を取り除いた後、釜で煮詰めます。
こうしてできた原塩を1週間ほど放置するとにがり(苦汁)が抜け、塩が生まれます。
旧野﨑家住宅・野﨑家塩業歴史館 | |
名称 | 旧野﨑家住宅・野﨑家塩業歴史館/きゅうのざきけじゅうたく・のざきけえんぎょうれきしかん |
所在地 | 岡山県倉敷市児島味野1-11-19 |
関連HP | 旧野﨑家住宅・野﨑家塩業歴史館公式ホームページ |
電車・バスで | JR児島駅から徒歩25分 |
ドライブで | 瀬戸中央自動車道児島ICから約2.5km |
駐車場 | 36台/無料 |
問い合わせ | 旧野﨑家住宅・野﨑家塩業歴史館 TEL:086-472-2001 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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