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ジョン万次郎上陸の地

ジョン万次郎上陸の地

沖縄県糸満市にある大渡海岸(おおどかいがん)は、別の名をジョン万ビーチ。足摺岬沖で漂流し、鳥島でアメリカの捕鯨船に救助され、日本人として初めてアメリカ大陸に上陸した土佐の漁師、ジョン万次郎(中浜万次郎)が、10年を経て故郷を目指して上陸した地が、ジョン万次郎上陸の地なのです。

ホノルルから上海へ向かう商船から下船し、上陸

本島最南端・喜屋武岬の東側に位置する大渡海岸。
カウボーイハットをかぶり、ベストやジーンズを着用した姿の記念碑が平成30年に建立されています。
右手は故郷・土佐清水市の方向を指差し、左手は『ジョージ・ワシントン伝記』とナサニエル・ボウディッチ『新アメリカ実用航海術概要』(Nathaniel Bowditch『American Practical Navigator』)を携えています。

嘉永4年(1851年)、ホノルル(ハワイ)から上海行きの商船「サラ・ボイド号」に乗船し、喜屋武岬の沖合で「アドベンチャラー号」(Adventurer=ホノルルでジョン万次郎自身が購入した小型の捕鯨ボート)を下ろして当時薩摩藩の治世下にあった琉球・大度浜海岸に上陸したのです。

帰国後、ジョン万次郎は、アメリカから持ち帰った『新アメリカ実用航海術概要』を翻訳し(『亜美理加合衆国航海学書』)、航海士教育の教科書とし、これを使い、江川太郎左衛門の韮山塾や幕府の海軍訓練所で教授として講義を行なっています。
坂本龍馬が『船中八策』を起草した土佐藩の御用船「夕顔」は、ジョン万次郎と後藤象二郎が上海で購入したもの。
実は、坂本龍馬の外国に対する開眼も、万次郎の体験を伝え聞いたことによるものだといわれ、龍馬以外にも板垣退助、中江兆民、岩崎弥太郎などに大きな影響を与えています。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため「咸臨丸」がアメリカに渡航しますが、勝海舟が活躍したように思われていますが、実際には船酔いでダウンし、ジョン万次郎が指揮をし、アメリカ海軍のブルック大尉以下、アメリカ人の船員が操船しています(昭和35年、アメリカ海軍のブルック大尉の航海日誌が公開され、真実が明らかに)。

ちなみにジョン万次郎という名前は、昭和12年に刊行された『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で初めて使われた名前で、本名は中浜万次郎、アメリカ国内ではJohn Mung(ジョン・マン)の名で呼ばれていました。
正しくは中浜万次郎、あるいはジョン・マンです。

ジョン万次郎銅像(中浜万次郎像)は、故郷、土佐清水市の足摺岬に立ち、生家は土佐清水市に復元されています。

ジョン万次郎上陸の地
名称 ジョン万次郎上陸の地/じょんまんじろうじょうりくのち
所在地 沖縄県糸満市大度337
関連HP 糸満市公式ホームページ
ドライブで 那覇空港から約17km
駐車場 27台/無料
問い合わせ 糸満市商工観光課 TEL:098-840-8135/FAX:098-840-8155
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

ジョン万次郎銅像(中浜万次郎像)

高知県土佐清水市、足摺岬の先端部に立つのが、ジョン万次郎銅像(中浜万次郎像)。漁の最中に漂流、鳥島に上陸後、アメリカの捕鯨船に救われ、帰国後は、徳川幕府が開国の交渉などに重用しています。出身地が現在の土佐清水市であること、足摺岬沖の漁で遭難

ジョン万次郎生家(中浜万次郎生家)

高知県土佐清水市中浜地区にあるジョン万次郎(中浜万次郎)の生家跡に生家を復元した建物が、ジョン万次郎生家(中浜万次郎生家)。平成22年10月31日に写真をもとに復元した茅葺きの木造平屋建ての建物です。内部も江戸時代後期の生活を再現した造りで

 

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