京、方広寺に鋳造された鐘に刻まれた銘文(方広寺鐘銘事件)から発展した豊臣勢力に対する厳しい処置。その後、大坂夏の陣が起こり、大坂城の堀が埋め立てられ、ついに慶長20年5月8日(1615年6月4日)、大坂夏の陣で、豊臣秀頼と淀殿は自害に追い詰められます。大坂城公園内には「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」碑が立っています。
大坂夏の陣で秀頼、淀殿はここで自害
慶長8年2月12日(1603年3月24日)、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、いよいよ徳川幕府の本格的な体制づくりが始まります。
同年7月、徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入れ。
家康は着実に天下普請で伏見城、二条城、彦根城などを築き、西を睨む姫路城などを大改修。
同時に大砲や銃を調達し、戦に備えますが、秀頼は東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂などの再建に尽力しています。
これは秀吉の追善供養、そして軍事的な思惑がないことを示すためだったと推測できます。
豊臣家に対して融和政策をとっていたかのように見せながらも、方広寺鐘銘事件で豊臣家を窮地へと追い詰めてゆきます。
方広寺鐘銘事件で駿府へと派遣された片桐且元が、淀殿に示した解決案は、秀頼を江戸に参勤させる、淀殿を人質として江戸に置く、秀頼が国替えに応じ大坂城を退去するのいずれかというもので、淀殿は激怒して片桐且元は信頼を失ってしまいます。
こうして大坂冬の陣が勃発し、豊臣家滅亡の大坂夏の陣へと続きます。
夏の陣では堀が埋め立てられた大坂城では守るすべもなく、天守が炎上し、秀頼と淀殿は山里丸に逃れますが、すぐに徳川軍に包囲されます。
大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願しますが、家康は耳を貸さずに豊臣秀頼と淀殿はここで自刃しています。
「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」碑が立つのは、大阪城公園内の山里丸。
天守の裏側で、刻印石広場の東側になります。
碑の建立は平成9年。
同じ山里丸には西側に「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」もあり、ピンポイントでの自害の地でないことがわかります。
昭和55年の大坂城三の丸の発掘調査時に頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬の頭骨を発見。
頭蓋骨は20代男性のもので顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認され、豊臣秀吉ではないかと類推されるため、昭和58年に京都の清凉寺に首塚が築かれて埋葬されています。
平成23年には大坂城三の丸跡に建つ玉造稲荷神社に豊臣秀頼公銅像が建立されています。
豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地 | |
名称 | 豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地/とよとみひでより よどどのらじじんのち |
所在地 | 大阪府大阪市中央区大阪城3-11 |
関連HP | 大阪城パークセンター公式ホームページ |
電車・バスで | JR大阪城公園駅からすぐ |
ドライブで | 阪神高速13号東大阪線森之宮出口から約800m |
駐車場 | 大阪城公園駅前駐車場(171台/有料) |
問い合わせ | 大阪城公園事務所 TEL:06-6941-1144/FAX:06-6943-6877 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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