江戸時代の五街道を中心とする街道制度が終焉し、国道という言葉が初めて使われたのが明治9年のこと。太政官通達で国道は一等、二等、三等に分かれましたが、明治18年に国道の級別が廃止され、東京~横浜港(現・大さん橋)を「国道1号」と定めたのが、現在の国道1号の最初でした。
明治初期にもっとも大切な道は、東京と横浜港を結ぶ道
明治9年、明治政府は、道路を「国道」、「県道」、「里道」の三種類に分け、さらに国道は、一等、二等、三等に分類しました。
開港から間もないこともあって、外国政府の意向を重んじ、一等国道=東京より各開港場に達するもの、二等国道=東京より伊勢宗廟(伊勢神宮)及び各府各鎮台に達するもの、三等国道=東京より各県庁に達するもの及び各府各鎮台を拘連(連絡)するものという具合に定め、いちばん重要な一等国道は開港後に外国人居留地が築かれ、領事館などもある開港場への道としました。
つまりは、横浜港、神戸港などへの道で、二等国道は伊勢神宮と、陸軍の国土防衛拠点である鎮台(東京鎮台のほか仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に置かれていました)への道ということになります。
逆に徳川幕府の定めた「五街道」は、明治政府は三等国道の扱いで、現在の「国道1号=東海道」というイメージとはかけ離れたものでした。
明治18年2月24日に定められた国道は、国道が連番形式として1号から44号の44路線が定められましたが、明治9年の等級制度の名残もあって、国道1号~8号は旧国道一等、国道9号~11号は旧国道二等、国道12号~44号は旧国道三等に該当します。
現在の国道と異なる点は重複部分を含め、すべての国道が東京・日本橋を起点としていました。
また、明治18年段階では、現・香川県、奈良県への国道はなく、北海道には札幌県、函館県、根室県がありました(根室県へは国道43号が通じていますが、実際には海岸を歩くような未開の部分もありました)。
また、鹿児島港〜那覇港は「海上国道」で、陸上区間は那覇港〜沖縄県庁のみでした。
「東京ヨリ横濱ニ達スル路線」東京~横浜港の国道1号のほか、大阪港への国道2号、神戸港への国道3号で、長崎港・国道4号、新潟港・国道5号、函館港・国道6号、神戸港(中山道経由)・国道7号、新潟港・国道8号と、いずれも主要な国際貿易港と結ぶものが並んでいます。
最初の国道1号は、東京府・日本橋を起点に、横浜港までの33.6kmで、日本橋〜現・横浜駅間は街道時代の東海道(旧道)を踏襲し、旧横浜駅(現・桜木町駅)、神奈川県庁を経て横浜港「西波止バ」(現在の大さん橋/大さん橋の整備は明治27年)に達していました。
少し内陸を走っている感があるのは、当時海岸線の位置だからで、鉄道の建設、埋め立ての進行で、内陸になったのです。
桜木町駅〜大さん橋間は、現在の日本大通り(国道133号)とあまり変わりなく、弁天橋は明治国道では国道1号だったのです(日本大通りは明治4年、リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計で、横浜市では「日本初の西洋式街路」としています)。
国道2号は、横浜までは国道1号で(重複国道)、正確には横浜港〜大阪港、国道3号も大阪港までは国道2号で、大阪港〜神戸港部分に該当します。
国道1号が横浜港を結ぶものではなくなったのは、道路網が充実した大正8年のこと。
日本初となる「道路法」が制定され、国道1号は東京(日本橋)と伊勢神宮を結ぶルートに変更されました。
富国強兵が完成し、大正デモクラシーと称されたような世の中でも「皇国のシンボル」としての意識があったのでしょうか、国道1号は伊勢神宮とを結びました(明治国道の9号・日本橋〜伊勢神宮を1号に格上げ)。
国道1号が現在のルートになったのは、戦後の復興と経済成長を目指す昭和27年に制定された新道路法でのこと。
一級国道は「国土を縦断・横断、または循環し、全国的な幹線道路網の枢要部分を構成し、かつ都道府県庁所在地、その他、政治・経済・文化上、特に重要な都市を連絡する道路」とされ、その筆頭の国道1号には東京都中央区(日本橋)〜終点・大阪市北区(梅田)と定められたのです。
こうした国道1号変遷の歴史を振り返ると、外国政府を意識した明治新政府の国道(東京〜横浜港)、富国強兵の実現と、明治天皇神格化完成の時代(東京〜伊勢神宮)、そして戦後の太平洋大動脈の時代(東京〜大阪)と、ダイナミックな歴史の変化を見事に体現しているともいえるのです。
国道1号は東京と横浜港を結ぶ国道だった! | |
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