埼玉県熊谷市などを流れる農業用水路、備前渠用水路(びぜんきょようすいろ)は、徳川幕府の命で開削した埼玉県最古の用水路。慶長9年(1604年)、関東郡代・伊奈忠次(いなただつぐ)が開削したもの。農林水産省の疏水百選、国際かんがい排水委員会(ICID)の世界かんがい施設遺産にも認定されています。
今も素掘りの場所が多く現存!
備前渠用水路は本庄市山王堂地区で利根川から取水し、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市を流れ、利根川右岸の1400haの水田に灌漑用水を供給する延長23kmの農業用水路。
現在でも備前渠用水路土地改良区が維持管理、配分調整をする現役の農業用水路になっています。
現在の取水口は開削当初の地点から、4kmも上流に位置しています。
これは最初の取水口(現・本庄市仁手)が寛保2年(1742年)の洪水によって烏川の流路が変わるなどして破壊されたこと、さらに天明3年(1783年)、浅間山の大噴火で用水路が利根川からの土砂流入で埋まってしまったことなどがあり、明治20年に久々宇(くぐう)、さらに昭和5年に現在地(山王堂・備前渠第一樋管頭首工)に移されて復興したから。
熊谷市八木田の熊谷市妻沼第1浄水場隣接地には、天保4年(1833年)の建てられた備前渠再興記念碑を中心にした備前渠再興記碑公園もあり(記念碑は平成6年に復刻)、何度も復興してきたことがよくわかります。
地元では「備前堀」の愛称で親しまれる用水路で、今でも素掘りの場所が多く、当時の面影を残しています。
世界かんがい施設遺産に認定される農業用水路は、埼玉県内では見沼代用水と備前渠用水路の2ヶ所です。
なお、備前渠に架る旧日本煉瓦製造会社(明治21年創業)の備前渠鉄橋は、国の重要文化財に指定されています。
伊奈忠次と備前渠、利根川東遷事業
伊奈忠次は、天文19年(1550年)、三河国幡豆郡の小島城(現・愛知県西尾市小島町)に生誕。
父とともに家康の嫡男・信康の家臣になりますが、信康が武田と繋がったという嫌疑で自刃させられると和泉国・堺に潜伏。
本能寺の変の際、堺滞在中の家康を助け、脱出ルートの確保と伊賀越えに尽力し、帰参を果たし、家康の関東転封で家康を支えた代官頭のひとり、そして関東郡代になっています。
備前渠の名前も伊奈忠次の官位「備前守」に由来。
家康の関東転封に伴い、武蔵国足立郡の小室・鴻巣などに1万3000石を与えられ、現在の北足立郡伊奈町丸山に陣屋を構えています(伊奈氏屋敷跡は埼玉県の史跡に)。
伊奈忠次は、文禄3年(1594年)、利根川東遷事業に着手、さらに荒川六堰のうち五堰を設け、熊谷扇状地に広がる水田地帯を開発するなど、現在の東京の基盤をつくり、さらにその子、伊奈忠治は赤山(現・川口市)に陣屋を構え、父・伊奈忠次の事業を実質的に継ぎ、寛永18年(1641年)、利根川東遷事業を完成させています。
伊奈忠次、伊奈忠治は、ともに鴻巣市本町の勝願寺に眠っています。
備前渠用水路 | |
名称 | 備前渠用水路/びぜんきょようすいろ |
所在地 | 埼玉県熊谷市八木田ほか |
関連HP | 熊谷市公式ホームページ |
問い合わせ | 備前渠用水路土地改良区 TEL:048-567-3115/FAX:048-589-1071 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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