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平城京建設で破却された「幻の巨大古墳」発見! 跡地はなんと住宅街に!

佐紀池ノ尻古墳

奈良県奈良市の「平城宮跡」(国営平城宮跡歴史公園)の東側の市街地で、「幻の巨大古墳」ともいえる墳丘長200mにも及ぶ巨大な前方後円墳の痕跡が見つかっています。奈良市市教育委員会は2025年3月1日(土)、「佐紀池ノ尻古墳」(さきいけのじりこふん)と命名したことを発表しています。

平城京跡の住宅地で4世紀末の埴輪が出土

よく見ると道路形状が後円部の周濠跡のような感じに

古墳があったとされるのは国営平城宮跡歴史公園の東側、コナベ古墳、ウワナベ古墳というふたつの巨大な前方後円墳が仲良く並んでいますが、コナベ古墳の南西側、地図をじっくり眺めると、後円部分が道路形状に残されているような感じです。

コナベ古墳は、墳丘長204mの前方後円墳で、5世紀前半の築造。
被葬者は定かでありませんが宮内庁は第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと)の陵墓参考地としています。

さらに巨大なウワナベ古墳は、墳丘長280mほどの前方後円墳で、5世紀中頃の築造。
こちらも被葬者は定かでありませんが、宮内庁は応神天皇の娘、仁徳天皇の皇后である八田皇女(やたのひめみこ)の陵墓参考地に治定(じじょう)しています。

2025年3月1日(土)に「佐紀池ノ尻古墳」と命名されたこの新発見の古墳、2023年8月の部分的な発掘調査で(市街地となっているため発掘場所は限られます)、幅8m以上の溝の跡から4世紀末の円筒埴輪や盾形埴輪が出土。
航空レーザー測量の結果と照合して、幅30mほどの周濠に囲まれた、墳丘長200mにも及ぶ4世紀末に築造された巨大な前方後円墳の跡であることが明らかになりました。
つまりはヤマト王権時代の王権関係者の陵墓ということに。

一帯は平城京の区域内。
8世紀初めころと推測できる造成土の下に古墳の遺構があるため、前方後円墳は、和銅3年(710年)、元明天皇が藤原京から平城京に遷都した際、中国・唐の長安をモデルに、初の中国様式の王都となる平城京建設に伴って、破却されたのではないかと推測されるのです。

平城京建設で数多くの古墳が破却されていた!

過去にも新発見の佐紀池ノ尻古墳の東側、そして南側でも、平城京の遺構の下から墳丘長100m前後の古墳の痕跡が見つかっていて、現存する佐紀古墳群(コナベ古墳、ウワナベ古墳など)の周囲の古墳で平城京の域内に入るものは、建設時に破却されたと考えることができます。

第一次大極殿のすぐ北側にある市庭古墳(いちにわこふん)は墳丘長253mの巨大な前方後円墳でしたが、平城京建設時に邪魔な部分が削平され、現在は直径103m、高さ13mの円墳(前方後円墳の後円部のみ)が残されるのみとなっています。
宮内庁は天長元年7月7日(824年8月5日)に没した平城天皇(へいぜいてんのう)の陵(みささぎ)としていますが、実際には5世紀、ヤマト王権の陵墓で大きな隔たりがあります。

佐紀池ノ尻古墳と名付けられた幻の古墳、「完全に破壊された古墳で、発見されたものとしては日本最大」(奈良市埋蔵文化財調査センター)とのこと。

唐に認められる中央集権国家を目指した奈良時代、ヤマト王権時代の陵墓は、躊躇(ちゅうちょ)なく破却された可能性があり、古代史の新たな側面が浮かび上がってくるのです。

市庭古墳(いちにわこふん)
平城京建設で破却された「幻の巨大古墳」発見! 跡地はなんと住宅街に!
名称 佐紀池ノ尻古墳/さきいけのじりこふん
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

コナベ古墳

奈良県奈良市法華寺町にある墳丘長204mという巨大な前方後円墳が、コナベ古墳。佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)の東群に属する1基で、宮内庁から小奈辺陵墓参考地として、仁徳天皇皇后・磐之媛命(いわのひめのみこと)の陵墓参考地に治定され

ウワナベ古墳

奈良県奈良市法華寺町にある巨大な前方後円墳が、ウワナベ古墳。最新の調査の結果、墳丘長はこれまでの測量図を元にした255mを大幅に上回る270m〜280mだと判明し、国内12位、奈良県内4位の巨大古墳に。宮内庁から八田皇女(やたのひめみこ=仁

市庭古墳(平城天皇陵)

奈良県奈良市佐紀町、平城宮大極殿跡のすぐ北にある墳丘長253mという巨大な前方後円墳が、市庭古墳(いちにわこふん)。全国14位、奈良県6位の巨大な古墳で、宮内庁から楊梅陵(やまもものみささぎ)として平城天皇陵に治定されています。前方部が平城

 

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