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甲賀流忍術屋敷

甲賀流忍術屋敷

近江国(現在の滋賀県)甲賀(こうか)に伝わる、甲賀流忍術(こうかりゅうにんじゅつ)。甲賀武士五十三家と呼ばれた甲賀忍者の家系のうち、とくに功績のあった家は甲賀武士二十一家と呼ばれましたが、その筆頭格だったのが甲賀流忍術屋敷(望月家)の当主、望月出雲守。甲賀市の甲賀流忍術屋敷は、国内に唯一現存する本格的な忍者屋敷です。

唯一残った江戸時代のままの忍者屋敷

床板に仕掛けられた落とし穴
3階から1階まで逃げるための縄梯子

現存する忍術屋敷は、元禄年間(1688年〜1707年)に建てられたもの。
建物には仕組みがわからないと開けることができない「からくり窓」、襖や壁がくるりと回転する「どんでん返し」、床板に仕掛けられた落とし穴のある暗い部屋などの仕掛けが施されています。

屋敷内は資料館になっており武具などを展示するほか、秘伝の薬草茶「健保茶」を販売。
甲賀忍者は薬草などの利用にも熟達し、その伝統が近江兄弟社や日新薬品などの製薬会社誕生にもつながっています。

なぜ、太平の世になってもカラクリ仕掛けのある忍術屋敷が必要だったのかは、諸説あります。
およそ100年前の天正13年(1585年)、羽柴秀吉の命で甲賀の侍衆は改易処分となり、多くは平民となり、中村一氏(なかむらかずうじ)が水口岡山城主となって甲賀を支配、辛い日々を送りました(俗にいう「甲賀ゆれ」)。
そうした苦い経験があったのだと推測されます。

徳川家康世になって、甲賀侍は、「甲賀古士」と称し、徳川家康の庇護を求めていますが、いざというときに備えていたことになります。
その備えは死して久能山東照宮で西を睨む家康の深謀遠慮と通じるものがあるのです。

実際に忍者の使った道具
徳川家康と甲賀忍者
天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で討たれると、家康は堺から海路ではなく、宇治田原に出て、信楽へ入り、甲賀武士五十三家のひとり・多羅尾光俊の屋敷で1泊。
さらに従者50人と甲賀武士200人を付けて加太峠までの伊勢路を警護。
伊勢の白子浜から海を渡って三河へと逃げています。
家康の命からがらの伊賀越えに尽力した甲賀衆と家康の関係はこの時に強くなったのです。
ちなみに、囮(おとり)として駕籠に乗せられたのが、江戸の愛宕神社に鎮座する勝軍地蔵菩薩だと伝えられています。
多数決によって決定する合議制も足かせとなって伊賀忍者に遅れること50年、甲賀の忍者も寛永11年(1634年)、江戸に移り住むようになります。
甲賀流忍術屋敷
名称 甲賀流忍術屋敷/こうかりゅうにんじゅつやしき
Koka Ninja House(Kouka-ryu Ninjyutsu Yashiki)
所在地 滋賀県甲賀市甲南町竜法師2331
関連HP 甲賀流忍術屋敷公式ホームページ
電車・バスで JR甲南駅から徒歩30分
ドライブで 新名神高速道路甲南ICから約2.5km
駐車場 80台/無料
問い合わせ 甲賀流忍術屋敷 TEL:0748-86-2179/FAX:0748-86-7505
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

水口岡山城

2018年2月12日

 

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