飛鳥時代、役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた「実修実験の道」が修験道(しゅげんどう)です。修験者たちは、険しく霊気あふれる山に入り、修行することで自らの魂と神(至高なる魂)との繋がりを探ったのです。そんな修験道の歴史が今も脈々と息づくのが富士山、立山、白山の日本三霊山です。
大自然に身を投じ、自然と一体化
古代神道において、神霊が宿る依り代(よりしろ)を神奈備(かんなび)と呼びますが、それは同時に常世(とこよ)と現世(うつしよ)の境ともされました。
その後、飛鳥時代に仏教が伝来、空海の伝えた真言密教と古来からの山岳信仰(自然崇拝の古神道など)が融合し、「修行して迷妄を払い験徳を得る。修行して、その徳を驗(あら)わす」という修験道が生まれます。
修験とは、「大自然の中で聖なる力を得ること」の意で、大自然のなかで行なわれる厳しい行(ぎょう)が修行です。
修験者は、山岳修行で「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上」(迷いの世界)と、「声聞・縁覚・菩薩・如来」(悟りの世界)を体験することが目標です。
修験道の行者たちにとって、俗世界と隔絶された霊山には、曼荼羅世界(まんだらせかい)と呼ばれる仏の世界があったのです。
こうした修験道は、奈良時代(7世紀)、 修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ=役小角/えんのおづぬ)が大峰山・吉野山(奈良県吉野山・金峯山寺)で修行して金剛蔵王権現(究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王)を感得したことに始まります。
つまり、世界文化遺産に登録の吉野山は、修験道の始まりの山で、古代神道、修験道、仏教、神道という「日本の宗教の歴史」が凝縮され、ついに到達した境地といえる地なのです。
では、なぜ吉野山が三霊山に数えられないかといえば、ひとつは、別格ということ。
もう一つの理由は、南北朝時代に南朝の皇居とされ、その後、それが原因で政治的配慮からか、熊野詣で、吉野詣でが廃れたから。
逆に、富士山、白山、立山の登拝は、「山上の異界」を求める庶民の気持ちも反映して、江戸時代には現在の旅行代理店のような講中(こうじゅう)が組織され、山岳信仰は隆盛を迎えるのです。
富士山が世界文化遺産「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」に登録されたのも、江戸時代の富士講という講中登山の一大ブームがあったからこそ。
明治初年の神仏分離、廃仏毀釈で、山岳信仰を支えた寺や修験者たちは勢いを失います。明治5年には修験宗の廃止令が出て、真言宗、天台宗に組み込まれましたが、失職した山伏が17万人もいたともいわれています(木曽御岳、出羽三山など全国に修験の山がありました)。
修験道に代わって、国家神道を国の柱に、天皇制を中心とする近代国家づくりを模索したのです。
修験道では女人禁制だった霊山も女性登山が認められ、白山にも明治6年、初の女性登山が記録されています(鳥取県の女性)。
2004年7月1日に大峯修験をベースとする「紀伊山地の霊場と参詣道」が、さらに2013年6月22日に富士修験と富士山信仰の「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」が世界文化遺産に登録されたこともあり、修験道は、その精神性、そして自然とのつながりも再評価されています。
富士山、立山、白山は日本三霊山ですが、弾丸登山で富士山の頂きを極めるのは、単なるピークハンター。
かつての修験の道を思い浮かべて、「大自然に身を投じ、自然と一体化する」登山を、ぜひ。
日本三霊山を知り、「修験道」を学ぶ | |
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