リアス式海岸の奥行き1.2kmという深い入江を利用した天然の港が島根県大田市の温泉津港(ゆのつこう)。平安時代にはすでに温泉が発見され、毛利氏支配の中世には温泉津は銀の積み出しや石見銀山の鉱山町が消費する生活物資の集積地として重要な湊に。江戸時代〜明治時代には北前船の寄港地としても賑わいました。
毛利氏の中国統一の拠点となった銀の積出港
16世紀前半には、中国にもその存在が知られていた温泉津湊。
港内の波路浦には、唐人ヶ浦という地名も残るので、石見銀山と大陸との交易も偲ばれます。
永禄5年(1562年)、毛利元就(もうりもとなり)は石見国を平定すると、石見銀山を支配し、温泉津と石見銀山に奉行を配置します。
温泉津奉行は、通行する船の管理、関税の徴収、兵糧米の確保などの役割を担っていました。
温泉津奉行を介して温泉津から石見銀山へ兵糧米を輸送、その米を鉱山経営者に購入させて、銀(灰吹銀)に換え、それを毛利氏の軍事費に充当し、中国統一を果たしているのです。
江戸時代は石見銀山とともに天領で、豪商加賀屋の書付に「廻船問屋20数軒、酒屋15軒が軒先を競い、湊には千石船がたむろす」と記されていることから北前船の寄港地としての繁栄ぶりがよくわかります。
湾内には、温泉津浦のほか、入江部に小浜浦、波路浦、沖泊浦の計4浦があり、江戸時代はこれらを総称して温泉津湊と称していました(温泉津と沖泊に北前船を係留していました)。
明治時代になっても北前船は寄港し、銀や米などに代わって石州瓦、石材が積み込まれています。
明治17年には大阪商船が大阪〜境港の定期航路を開設し、温泉津はその寄港地となりました(温泉津に代理店を設置)。
それでも明治32年の島根県の統計を見ると、年間4000艘余りの入港船舶のうち、西洋形蒸気船は1割ほどで、8割を西洋形風帆船が占めていたことになっています。
そんな繁栄を見せた温泉津港ですが、大正7年、山陰鉄道浜田線の温泉津駅が開業し、貿易港としての機能は消失。
現在では、漁港としての機能のほか、硅砂など地下資源の積み出し港となっています。
銀を積み出した港と港町として鞆ケ浦、沖泊、そして大田市温泉津伝統的建造物群保存地区は世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成資産になっています。
温泉津港 | |
名称 | 温泉津港/ゆのつこう |
所在地 | 島根県大田市温泉津町温泉津 |
電車・バスで | JR温泉津駅から徒歩10分 |
ドライブで | 山陰自動車道温泉津ICから約1.7km |
駐車場 | ゆうゆう館前駐車場(10台)を利用 |
問い合わせ | 大田市観光協会 TEL:0854-88-9950 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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