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名護屋城・天守台跡

名護屋城跡・天守台

築城の達人・加藤清正を筆頭に、諸将の普請によって築かれた名護屋城(佐賀県唐津市)。標高89mの山頂部分には5層7階、高さ25~30mの天守を有した本丸があり、22m×18mの天守台の跡からは、巨大な礎石列や穴蔵が発掘、周囲からは金箔の瓦などが出土。秀吉が天下人たることを世に示す豪壮な構造が明らかとなっています。

秀吉はここから大陸に思いを馳せた

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の軍事基地として、天下普請で肥前国(佐賀県)に築かれた名護屋城。
中央最上段の本丸を中心に、中段にはそれを取り囲むように、二の丸、三の丸、遊撃丸、東出丸、弾正丸、水手曲輪があり、下段に、山里丸、台所丸を配置という一大軍事基地でしたが、その中核となるのが本丸の天守台。
天守台には5層7階(地上6階、地下1階)の天守が建っていました。
発掘調査では天守を支えた礎石、地階部分「穴蔵」の石垣、「穴蔵」への2ヶ所あった入口が発見されています。
礎石は16個が現存していますが、礎石跡の穴の数などから24個あったと推測されています。
豪壮な天守は、江戸時代の初め、この地が唐津藩の領有となったため、幕府への大いなる脅威となるため破却されています。
現在、天守台の石垣がないのも、この破却の際に石垣まで破壊、一部を唐津藩の古城番(唐津藩が設置した名護屋城管理の番所)に転用したため。

名護屋城は、もともと、この一帯を治めていた松浦党・波多親(はたちかし)の家臣、名護屋経述(なごやつねのぶ=豊臣秀吉の側室・広沢局の兄)の居城・垣添城だったもの。
天正19年(1591年)に築城が始まり(一説には天正18年5月とも)、突貫工事の末、わずか数ヶ月で完成しています。

総面積17万平方メートルもの巨大な城郭には、近江の石工集団・穴太衆(あのうしゅう)により、高さ十数メートルにも及ぶ石垣が設けられていました。

展望台となっている天守台跡からの眺めも見事で、一帯の陣屋跡や波戸岬の入江、玄界灘の馬渡島(まだらしま)、加唐島(かからしま)、松島、小川島、加部島(かべしま)まで一望のもと。
快晴の日にははるか壱岐まで視認でき、豊臣秀吉の大陸への思いを感じることができます。

中世末期、豊臣秀吉は、この天守に上り、朝鮮半島、中国大陸への進出を目指した侵略戦争を思い描き、指揮していたのです(ただし、豊臣秀吉の朝鮮出兵により、その後、近世・徳川政権下で朝鮮との国交が回復するまで、文化的な交流が途絶するという負の側面があったことも見逃すことはできません)。

なお、天守台から出土した遺物は、佐賀県立名護屋城博物館に収蔵展示されています。

名護屋城・天守台跡
名称 名護屋城・天守台跡/なごやじょう・てんしゅだいあと
所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
関連HP 肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会公式ホームページ
電車・バスで JR唐津駅大手口バスセンターから昭和バス波戸岬行きで40分、名護屋城博物館入口下車、徒歩5分。またはタクシーで30分
ドライブで 九州自動車道福岡ICから約75km
駐車場 名護屋城跡大手門駐車場(60台/無料)
問い合わせ 名護屋城跡観光案内所 TEL:0955-82-5774
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

名護屋城

豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点とするために肥前国松浦郡名護屋(現・佐賀県唐津市)に築城の達人といわれた加藤清正などの諸将に築かせた城が名護屋城(なごやじょう)。松浦党・波多親(はたちかし)の家臣、名護屋経述(なごやつねのぶ=広沢

名護屋城・本丸

豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、外征基地として築いた城が名護屋城(佐賀県唐津市)。北西に壱岐、対馬の島影を視認し、加部島が防波堤の役割をする地に築いた、当時、大坂城に次ぐ規模の巨城です。その中心で、丘陵の高台に位置し、五層の天守がそびえたのが本丸

名護屋城・大手口

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。佐賀県立名護屋城博物館前にある駐車場から観光案内所を通り、名護屋城へと入る部分が、城の正面玄関にあたる大手口。大手口を起点に南に向かって唐津に通じ

名護屋城・東出丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。正面玄関にあたる大手口からまっすぐ続く登城坂を上ると、右手に広がるのが東出丸。地元で千人枡と呼ばれる曲輪(くるわ)です、大手口や三の丸の警護をする

名護屋城・三の丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。本丸を守る重要な曲輪が三の丸。大手口→東出丸→三の丸と登城し、到達することができます。馬場を通じて本丸を隔てた反対側に位置する二の丸とも連絡してい

名護屋城・本丸大手門

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。三の丸からの入る本丸の玄関口にある最後の関門が本丸大手門。大手口→東出丸→三の丸→本丸大手門と登城し、到達することができます。往時には二層の豪壮な

名護屋城・本丸旧石垣

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。天草・島原一揆(島原の乱)で、一揆軍が廃城となっていた原城に籠城したことから、名護屋城も徹底的に破却されましたが、本丸旧石垣は、貴重な築城時代の石

名護屋城・二の丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた城跡が、名護屋城。当時、大坂城に次ぐ巨城でしたが、本丸の西に配されているのが二の丸です。武器、兵糧などを保管する建物があったと推測される曲輪(くるわ)で、長屋建物(掘立柱建物)の跡が見つかっ

名護屋城・山里口(山里丸虎口)

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた城跡が、名護屋城。豊臣秀吉の居館があった山里丸側にあった登城口が山里口(山里丸虎口)です。名護屋城下では当時盛んに茶の湯や能、歌会が催されていましたが、その中心的存在だったのが、山里丸(現在

名護屋城・遊撃丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた城跡が、名護屋城。当時、大坂城に次ぐ巨城でしたが、本丸の北西、二の丸の北に配された曲輪(くるわ)が遊撃丸。眼下に船手口があり、朝鮮の役の講話の際に、明国側講話使節(遊撃将軍・沈惟敬が派遣)の

名護屋城・弾正丸(搦手口)

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。南西側、搦手口(裏門)に位置する曲輪(くるわ)が弾正丸(だんじょうまる)。豊臣政権・五奉行の浅野長政(官位は弾正少弼・だんじょうしょうひつ)の居館

名護屋城・上杉景勝陣跡

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の巨大な軍事基地・名護屋城(佐賀県唐津市)には、おびただしい数の諸大名の陣屋が存在。地元で「越後陣」と呼ばれた米納戸(ヨノド)近くにあるのが上杉景勝陣跡。上杉景勝は、豊臣政権の重臣・五大老の一人で、5000人を率いて肥

名護屋城・直江兼続陣跡

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた名護屋城。上杉景勝の陣跡にぴたりと寄り添うかのように残されているのが、直江兼続陣跡(なおえかねつぐじんあと)です。その縄張りなどから、景勝の家臣である直江兼続の陣屋も130m×150mという

名護屋城・堀秀治陣跡

佐賀県唐津市、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して築かれた巨大な城郭、名護屋城の周囲に布陣した諸将ですが、それぞれ石垣を築いて陣屋を構えています。堀秀治陣跡(ほりひではるじんあと)は、現在確認される130あまりの陣跡のうちでももっとも遺構が整備された

佐賀県立名護屋城博物館

豊臣秀吉が起こした朝鮮出兵(文禄・慶長の役/1592年〜1598年)により、それまで築き上げてきた、朝鮮半島との交流は途絶。佐賀県立名護屋城博物館はそうした過去の反省に立ち、日本列島と朝鮮半島との交流の歴史を紹介し、双方の交流と友好をテーマ

 

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