名護屋城・三の丸

名護屋城・三の丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。本丸を守る重要な曲輪が三の丸。大手口→東出丸→三の丸と登城し、到達することができます。馬場を通じて本丸を隔てた反対側に位置する二の丸とも連絡しています。

二重櫓が建っていた櫓台の石垣が現存

名護屋城・三の丸
この櫓台の上に二重櫓が建っていました

三の丸には標高76mという名護屋城最高所に位置する井戸の遺構も残されています。
現在の深さは2mほどですが、後世に埋め立てられているため、往時の深さはわかっていません。

三の丸は、本丸防御という重要な役割を担っていたため、配置される櫓台も巨大で、その西側正面には名護屋城最大の鏡石が用いられています。
三の丸櫓台には、名護屋城では最大規模の二重櫓が建っていました。

名護屋城・三の丸
名護屋城・三の丸
名称 名護屋城・三の丸/なごやじょう・さんのまる
所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
関連HP 肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会公式ホームページ
電車・バスで JR唐津駅大手口バスセンターから昭和バス波戸岬行きで40分、名護屋城博物館入口下車、徒歩5分。またはタクシーで30分
ドライブで 九州自動車道福岡ICから約75km
駐車場 名護屋城跡大手門駐車場(60台/無料)
問い合わせ 名護屋城跡観光案内所 TEL:0955-82-5774
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
名護屋城

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