名護屋城・本丸大手門

名護屋城・本丸大手門

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。三の丸からの入る本丸の玄関口にある最後の関門が本丸大手門。大手口→東出丸→三の丸→本丸大手門と登城し、到達することができます。往時には二層の豪壮な門が登城者を威圧していました。

本丸へ入る最後の関門

名護屋城・本丸大手門

のちに仙台藩主・伊達政宗が、仙台城の大手門として移築したと伝えられますが、その大手門も第二次世界大戦の空襲で焼失しています。

平成3年度の発掘調査で、城門の礎石、L字型になった石段などが発掘され、門や櫓のものと推測できる大量の瓦が出土しています。
発掘調査から、何度か修築されていることも判明、現在は、最終の形態を門礎石を加えて復元しています。

名護屋城・本丸大手門
名護屋城・本丸大手門
名称 名護屋城・本丸大手門/なごやじょう・ほんまるおおてもん
所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
関連HP 肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会公式ホームページ
電車・バスで JR唐津駅大手口バスセンターから昭和バス波戸岬行きで40分、名護屋城博物館入口下車、徒歩5分。またはタクシーで30分
ドライブで 九州自動車道福岡ICから約75km
駐車場 名護屋城跡大手門駐車場(60台/無料)
問い合わせ 名護屋城跡観光案内所 TEL:0955-82-5774
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
名護屋城

名護屋城

豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点とするために肥前国松浦郡名護屋(現・佐賀県唐津市)に築城の達人といわれた加藤清正などの諸将に築かせた城が名護屋城(なごやじょう)。松浦党・波多親(はたちかし)の家臣、名護屋経述(なごやつねのぶ=広沢

名護屋城・大手口

名護屋城・大手口

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名護屋城跡・天守台

名護屋城・天守台跡

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名護屋城・本丸

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名護屋城・本丸旧石垣

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佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。天草・島原一揆(島原の乱)で、一揆軍が廃城となっていた原城に籠城したことから、名護屋城も徹底的に破却されましたが、本丸旧石垣は、貴重な築城時代の石

名護屋城・東出丸

名護屋城・東出丸

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名護屋城・三の丸

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佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。本丸を守る重要な曲輪が三の丸。大手口→東出丸→三の丸と登城し、到達することができます。馬場を通じて本丸を隔てた反対側に位置する二の丸とも連絡してい

名護屋城・二の丸

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