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名護屋城・上杉景勝陣跡

名護屋城・上杉景勝陣屋跡

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の巨大な軍事基地・名護屋城(佐賀県唐津市)には、おびただしい数の諸大名の陣屋が存在。地元で「越後陣」と呼ばれた米納戸(ヨノド)近くにあるのが上杉景勝陣跡。上杉景勝は、豊臣政権の重臣・五大老の一人で、5000人を率いて肥前国名護屋に駐屯しています。

五大老だった上杉景勝の陣屋跡は畑に転用

名護屋城に配された諸将が駐屯する陣の数はおよそ130以上(一説には200を超えるとも)で、五大老の徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、さらには石田三成、伊達政宗などが陣を敷いた跡も残されています。

文禄元年(1592年)に始まった文禄の役で、上杉景勝は、5000人を率いて名護屋入りをし、文禄2年(1593年)、豊臣秀吉の名代として家臣の高梨頼親らを伴って朝鮮に渡り、朝鮮の熊川城築城を担当しています。

上杉景勝陣跡は、国の特別史跡に指定された23の陣跡のひとつ。
現在では私有地となり、畑として利用されているため全容はわかりずらいのですが、石塁や帯曲輪の段差が見られることから、180m×270mというかなりの規模と推測されています。

土塁のみという簡便な陣屋がある一方で、狩野光信作の『肥前名護屋城図屏風』に描かれた上杉景勝の陣は、総石垣造り。
3つの曲輪からなり、それぞれに門を構えた数寄屋風建物が並ぶ、五大老らしい立派な陣だったことがわかります。
残念ながら現在では、私有地のため、公道からのみ見学が可能です。

名護屋城博物館では名護屋城跡と各陣跡をめぐるルートを「歴史探訪の道」として整備。
各陣跡近くに案内板が設けられており、地形に照らし合わせながら諸大名の陣跡を遠望することができます。

名護屋城・上杉景勝陣跡
名称 名護屋城・上杉景勝陣跡/なごやじょう・うえすぎかげかつじんあと
所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
ドライブで 厳木多久道路牧瀬ICから約38.9km
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

名護屋城・直江兼続陣跡

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた名護屋城。上杉景勝の陣跡にぴたりと寄り添うかのように残されているのが、直江兼続陣跡(なおえかねつぐじんあと)です。その縄張りなどから、景勝の家臣である直江兼続の陣屋も130m×150mという

名護屋城・堀秀治陣跡

佐賀県唐津市、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して築かれた巨大な城郭、名護屋城の周囲に布陣した諸将ですが、それぞれ石垣を築いて陣屋を構えています。堀秀治陣跡(ほりひではるじんあと)は、現在確認される130あまりの陣跡のうちでももっとも遺構が整備された

名護屋城

豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点とするために肥前国松浦郡名護屋(現・佐賀県唐津市)に築城の達人といわれた加藤清正などの諸将に築かせた城が名護屋城(なごやじょう)。松浦党・波多親(はたちかし)の家臣、名護屋経述(なごやつねのぶ=広沢

名護屋城・天守台跡

築城の達人・加藤清正を筆頭に、諸将の普請によって築かれた名護屋城(佐賀県唐津市)。標高89mの山頂部分には5層7階、高さ25~30mの天守を有した本丸があり、22m×18mの天守台の跡からは、巨大な礎石列や穴蔵が発掘、周囲からは金箔の瓦など

名護屋城・大手口

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。佐賀県立名護屋城博物館前にある駐車場から観光案内所を通り、名護屋城へと入る部分が、城の正面玄関にあたる大手口。大手口を起点に南に向かって唐津に通じ

名護屋城・東出丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。正面玄関にあたる大手口からまっすぐ続く登城坂を上ると、右手に広がるのが東出丸。地元で千人枡と呼ばれる曲輪(くるわ)です、大手口や三の丸の警護をする

名護屋城・三の丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。本丸を守る重要な曲輪が三の丸。大手口→東出丸→三の丸と登城し、到達することができます。馬場を通じて本丸を隔てた反対側に位置する二の丸とも連絡してい

名護屋城・本丸大手門

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。三の丸からの入る本丸の玄関口にある最後の関門が本丸大手門。大手口→東出丸→三の丸→本丸大手門と登城し、到達することができます。往時には二層の豪壮な

名護屋城・山里口(山里丸虎口)

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた城跡が、名護屋城。豊臣秀吉の居館があった山里丸側にあった登城口が山里口(山里丸虎口)です。名護屋城下では当時盛んに茶の湯や能、歌会が催されていましたが、その中心的存在だったのが、山里丸(現在

名護屋城・本丸

豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、外征基地として築いた城が名護屋城(佐賀県唐津市)。北西に壱岐、対馬の島影を視認し、加部島が防波堤の役割をする地に築いた、当時、大坂城に次ぐ規模の巨城です。その中心で、丘陵の高台に位置し、五層の天守がそびえたのが本丸

名護屋城・遊撃丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた城跡が、名護屋城。当時、大坂城に次ぐ巨城でしたが、本丸の北西、二の丸の北に配された曲輪(くるわ)が遊撃丸。眼下に船手口があり、朝鮮の役の講話の際に、明国側講話使節(遊撃将軍・沈惟敬が派遣)の

名護屋城・二の丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた城跡が、名護屋城。当時、大坂城に次ぐ巨城でしたが、本丸の西に配されているのが二の丸です。武器、兵糧などを保管する建物があったと推測される曲輪(くるわ)で、長屋建物(掘立柱建物)の跡が見つかっ

名護屋城・本丸旧石垣

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。天草・島原一揆(島原の乱)で、一揆軍が廃城となっていた原城に籠城したことから、名護屋城も徹底的に破却されましたが、本丸旧石垣は、貴重な築城時代の石

名護屋城・弾正丸(搦手口)

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。南西側、搦手口(裏門)に位置する曲輪(くるわ)が弾正丸(だんじょうまる)。豊臣政権・五奉行の浅野長政(官位は弾正少弼・だんじょうしょうひつ)の居館

佐賀県立名護屋城博物館

豊臣秀吉が起こした朝鮮出兵(文禄・慶長の役/1592年〜1598年)により、それまで築き上げてきた、朝鮮半島との交流は途絶。佐賀県立名護屋城博物館はそうした過去の反省に立ち、日本列島と朝鮮半島との交流の歴史を紹介し、双方の交流と友好をテーマ

 

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