サイトアイコン ニッポン旅マガジン

名護屋城・遊撃丸

名護屋城・遊撃丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた城跡が、名護屋城。当時、大坂城に次ぐ巨城でしたが、本丸の北西、二の丸の北に配された曲輪(くるわ)が遊撃丸。眼下に船手口があり、朝鮮の役の講話の際に、明国側講話使節(遊撃将軍・沈惟敬が派遣)の宿舎となった場所です。

遊撃将軍の使節が滞在したのが名の由来

文禄の役に明の兵部尚書(軍を統括する大臣)・石星の使節として遊撃将軍として朝鮮に派遣されのが沈惟敬(しんいけい/シェンウェイチン)。

文禄2年(1593年)、沈惟敬は、朝鮮で小西行長と講和交渉をし、明国は財政難もあって戦争の早期決着を図ったのです。
もともと豊臣秀吉の朝鮮出兵の最終目的は、明国の制圧。
その足がかりとして、まずは明国と朝貢関係(明国が君主国)にあった朝鮮を攻略しようと考えたのです。

文禄2年5月23日(1593年6月22日)、明国使節の謝用梓(しゃようし)と徐一貫(じょいっかん)は石田三成、小西行長に伴われて九州に渡り、名護屋城で豊臣秀吉と対面していますが、そのとき滞在した場所が遊撃丸(遊撃将軍の使節が滞在したことが名の由来)です。
秀吉や大名は、使節に対し正式な「御装束」で応対し、秀吉が山里丸に築いた「黄金の茶室」で食事、茶で饗応。
茶会や舟遊びなどで饗応し、6月28日まで名護屋に滞在、出立に際して秀吉は講和のための7条件を提示しています(秀吉の「和議七ヶ条」)。

文禄の役の講和交渉、小西行長と沈惟敬

沈惟敬の一連の交渉は、朝鮮の役和議成立後、日明両国を欺瞞していたことが発覚し、沈惟敬は日本軍へ投じようとしますが失敗し、明で処刑されています。

ただし、沈惟敬と小西行長は、豊臣秀吉の強硬な姿勢(秀吉の「和議七ヶ条」は、明の皇女を自分の后にするなど明が飲める内容ではありませんでした)、そして明国側の利益の板挟みとなったため、やむをえず秀吉と、明国首脳を欺いたのだと推測できます。
ふたりは、豊臣秀吉が明皇帝に誼(よしみ)を通じる文書「納款表」(のうかんひょう)を偽造。
小西行長の家臣・内藤如安(ないとうじょあん)を日本の使節に仕立てて、明国に派遣しているのです。
内藤如安の明国派遣後には、和議の実現には秀吉の降伏文書である「関白降表」(かんぱくこうひょう)が必要となり、ついには降伏文書を偽造することに発展します。

慶長2年(1597年)の慶長の役後、慶長4年(1599年)にも秀吉は大規模な出兵を計画しますが、慶長3年8月18日に伏見城で没し、徳川家康ら五大老は朝鮮で戦闘する諸将に帰国命令を出し、ようやく終結となっています。

秀吉の「和議七ヶ条」
一 明の皇女をわが后妃に迎える。
二 勘合貿易を復活する。
三 日明の和平を確保するために、両国の大臣が誓詞を取りかわす。
四 講和が成立すれば占領下にある朝鮮北部の四道と京城を返還する。
五 朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする。
六 去年生檎りにした二王子(臨海君、順和君)は放還する。
七 朝鮮国王の重臣が代々日本に背かないという誓詞を書く。

名護屋城・遊撃丸
名称 名護屋城・遊撃丸/なごやじょう・ゆうげきまる
所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
関連HP 肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会公式ホームページ
電車・バスで JR唐津駅大手口バスセンターから昭和バス波戸岬行きで40分、名護屋城博物館入口下車、徒歩5分。またはタクシーで30分
ドライブで 九州自動車道福岡ICから約75km
駐車場 名護屋城跡大手門駐車場(60台/無料)
問い合わせ 名護屋城跡観光案内所 TEL:0955-82-5774
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

名護屋城

豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点とするために肥前国松浦郡名護屋(現・佐賀県唐津市)に築城の達人といわれた加藤清正などの諸将に築かせた城が名護屋城(なごやじょう)。松浦党・波多親(はたちかし)の家臣、名護屋経述(なごやつねのぶ=広沢

名護屋城・本丸

豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、外征基地として築いた城が名護屋城(佐賀県唐津市)。北西に壱岐、対馬の島影を視認し、加部島が防波堤の役割をする地に築いた、当時、大坂城に次ぐ規模の巨城です。その中心で、丘陵の高台に位置し、五層の天守がそびえたのが本丸

名護屋城・大手口

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。佐賀県立名護屋城博物館前にある駐車場から観光案内所を通り、名護屋城へと入る部分が、城の正面玄関にあたる大手口。大手口を起点に南に向かって唐津に通じ

名護屋城・天守台跡

築城の達人・加藤清正を筆頭に、諸将の普請によって築かれた名護屋城(佐賀県唐津市)。標高89mの山頂部分には5層7階、高さ25~30mの天守を有した本丸があり、22m×18mの天守台の跡からは、巨大な礎石列や穴蔵が発掘、周囲からは金箔の瓦など

名護屋城・東出丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。正面玄関にあたる大手口からまっすぐ続く登城坂を上ると、右手に広がるのが東出丸。地元で千人枡と呼ばれる曲輪(くるわ)です、大手口や三の丸の警護をする

名護屋城・三の丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。本丸を守る重要な曲輪が三の丸。大手口→東出丸→三の丸と登城し、到達することができます。馬場を通じて本丸を隔てた反対側に位置する二の丸とも連絡してい

名護屋城・本丸大手門

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。三の丸からの入る本丸の玄関口にある最後の関門が本丸大手門。大手口→東出丸→三の丸→本丸大手門と登城し、到達することができます。往時には二層の豪壮な

名護屋城・二の丸

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた城跡が、名護屋城。当時、大坂城に次ぐ巨城でしたが、本丸の西に配されているのが二の丸です。武器、兵糧などを保管する建物があったと推測される曲輪(くるわ)で、長屋建物(掘立柱建物)の跡が見つかっ

名護屋城・山里口(山里丸虎口)

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた城跡が、名護屋城。豊臣秀吉の居館があった山里丸側にあった登城口が山里口(山里丸虎口)です。名護屋城下では当時盛んに茶の湯や能、歌会が催されていましたが、その中心的存在だったのが、山里丸(現在

名護屋城・本丸旧石垣

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。天草・島原一揆(島原の乱)で、一揆軍が廃城となっていた原城に籠城したことから、名護屋城も徹底的に破却されましたが、本丸旧石垣は、貴重な築城時代の石

名護屋城・弾正丸(搦手口)

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた、当時、大坂城に次ぐ大規模な城跡が名護屋城。南西側、搦手口(裏門)に位置する曲輪(くるわ)が弾正丸(だんじょうまる)。豊臣政権・五奉行の浅野長政(官位は弾正少弼・だんじょうしょうひつ)の居館

名護屋城・馬場

佐賀県唐津市、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、外征基地として築かれた巨大な城が名護屋城。本丸の南側に帯曲輪(おびくるわ)的に配されているのが馬場です。本丸、三の丸の守備という役割をも有していたため櫓も建てられ、櫓台の石垣が残されています。三の丸と

名護屋城・上杉景勝陣跡

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の巨大な軍事基地・名護屋城(佐賀県唐津市)には、おびただしい数の諸大名の陣屋が存在。地元で「越後陣」と呼ばれた米納戸(ヨノド)近くにあるのが上杉景勝陣跡。上杉景勝は、豊臣政権の重臣・五大老の一人で、5000人を率いて肥

名護屋城・直江兼続陣跡

佐賀県唐津市にある豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に築かれた名護屋城。上杉景勝の陣跡にぴたりと寄り添うかのように残されているのが、直江兼続陣跡(なおえかねつぐじんあと)です。その縄張りなどから、景勝の家臣である直江兼続の陣屋も130m×150mという

名護屋城・堀秀治陣跡

佐賀県唐津市、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して築かれた巨大な城郭、名護屋城の周囲に布陣した諸将ですが、それぞれ石垣を築いて陣屋を構えています。堀秀治陣跡(ほりひではるじんあと)は、現在確認される130あまりの陣跡のうちでももっとも遺構が整備された

佐賀県立名護屋城博物館

豊臣秀吉が起こした朝鮮出兵(文禄・慶長の役/1592年〜1598年)により、それまで築き上げてきた、朝鮮半島との交流は途絶。佐賀県立名護屋城博物館はそうした過去の反省に立ち、日本列島と朝鮮半島との交流の歴史を紹介し、双方の交流と友好をテーマ

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

モバイルバージョンを終了