江戸時代の東海道で「海道(街道)一の絶景」といわれた景勝地が由比(由井)宿(ゆいじゅく/現・静岡市清水区由比)と興津宿(おきつじゅく/現・興津本町)の中間にある薩埵峠(さったとうげ)。東海道本線由比駅から南へと旧東海道(狭い農道)を歩けば40分ほどで峠の展望台に着くことができます。
東海道一の絶景は今も健在!
西倉沢から細い農道に入れば、展望台まで徒歩2分という位置にある駐車場に車を入れることが可能ですが、みかん畑の狭い道で、農業車両優先なので対向車に注意して走行を。
途中の寺尾・倉沢の家並みは、街道時代の雰囲気を色濃く残しています。
薩埵峠からは、眼下に東名高速道路を見下ろします。
「東海の親不知子不知」(おやしらずこしらず)と恐れられた海岸沿いの難所を避けるために、薩埵峠に明暦元年(1655年)、「中道」と呼ばれる峠越えのルートを開拓。
わざわざ薩埵山を開削して峠道をつくったのは、朝鮮通信使来朝に合わせて。
そこからの眺めが広重が浮世絵に描き、シーボルトやケンペルも感動した薩埵峠の大観となっています(富士山が見えやすいのは厳冬の2月頃)。
幕末の嘉永7年11 月4日(11月27日に安政元年/1854年12 月23日)遠州灘でマグニチュード8.4 の巨大地震(安政の大地震)が発生(下田沖停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」が大破)、海岸が1m~2m隆起し、以降は、再び東海道が現在の海岸沿いを通るようになったのです。
それまでの海岸沿いの道は、奈良時代、山部赤人が歩いて、由比・蒲原へと出て、「田子の浦ゆうち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける」(『万葉集』)と詠った光景とも推測されています(当時の田子の浦は蒲原あたりではないかとする説があります)。
ちなみに、薩埵峠周辺の地層は、新第三紀鮮新世(約200万年前)の浜石岳層群(海成の礫岩と砂岩)で、比較的にもろく、宝永4年(1707年)年の東海地震では薩埵峠が崩れ、安政元年(1854年)の安政東海地震では山崩れが起こっています。
由比から薩埵峠に上る農道途中、西倉沢の地形を観察すると、階段状になっていますが、最下段は海岸段丘ですが、それより上の段は、過去の地すべり滑落崖と地すべり移動土塊の跡だと推測されています。
眼下に、JR東海道線、東名高速道路、国道1号線が通っていますが、今も交通の難所であることに変わりがないのです。
安藤広重が描いた薩埵峠
有名な歌川広重の保永堂版『東海道五十三次』由井 薩埵嶺(さったれい)は、『東海道五十三次』シリーズ中もっとも売れた作品。
秋里籬島(あきさとりとう)の『東海道名所図会』の「薩埵山」を元絵としたと推測できますが、まさに絵葉書のような完成された「絵になる風景」です。
歌川広重 『冨士三十六景』駿河薩タ之海上は、広重の最晩年(刊行は広重の没後、翌年の6月)に描かれたもので、遠近を強調したドラマチックな構図と鮮やかな彩色で、富士山を描いています。
安政5年(1858年)4月に版下の検閲が済んでいるので、安政の大地震後の作品。
東海道が海沿いの道になったと知り、あえて海岸の視点から描いているのかもしれません。
薩埵峠 | |
名称 | 薩埵峠/さったとうげ |
所在地 | 静岡県静岡市清水区由比倉沢 |
関連HP | 静岡市公式ホームページ |
電車・バスで | JR由比駅からタクシーで10分 |
ドライブで | 東名高速道路清水ICからから約12km。新東名高速道路新清水ICから約14㎞ |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 静岡市観光交流課 TEL:054-221-1310 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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