多賀城と聞いてピンと来る人は少ないかもしれません。国の特別史跡にもなっている宮城県多賀城市にあった古代の城。奈良時代の神亀元年(724年)、遠く離れた奈良の朝廷が、北東北の蝦夷(えみし)を支配するために築いた城柵で、2024年には多賀城創建1300年ということになります。
多賀城創建1300年を記念して南門も復元
聖武天皇(しょうむてんのう)の即位と直後の神亀元年(724年)、蝦夷が陸奥大掾・佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)を殺害する事件(陸奥海道の蝦夷の反乱)を受け、遠征軍が東北に派遣されましたが、その際に按察使(あんさつし)・大野東人(おおののあずまびと)が前線基地として築いたのが多賀城です。
古代においては、天智2年8月(663年10月)、朝鮮半島の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい/日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦い)の敗戦を受け、倭国は、九州北部や瀬戸内海に朝鮮式の城郭が築いていますが、奈良時代になると、王権の伸長、律令制の開始とともに、朝廷に従わない北東北の部族集団の平定が重要な課題となったのです。
江戸時代初めに多賀城碑が発見されるまでは埋もれた遺跡だったことが幸いし、良好な保存状態が保たれています。
昭和35年から始まった発掘調査では、それまで前線における軍事基地としての役割が強調されていましたが、奈良時代には鎮守府(ちんじゅふ)も併設、奈良時代〜平安時代に陸奥国(むつのくに)の国府が置かれたことも判明し、政治的な機能があったことも判明しています。
規模は、900m四方という広大なもので、周囲は築地塀(ついじべい)で囲まれ、南、東、西に門が配置されていました。
2024年が多賀城創建1300年にあたるため、東北の経営の中心であった多賀城の、入口にあたる重要な施設ということで、8世紀中頃(政庁Ⅱ期)の多賀城南門の復元(高さ14mの二重門と高さ4.5mの築地塀)、南門から南に延びるメインストリートである「南北大路」の復元も行なわれています。
ちなみに奈良時代、蝦夷(えみし)と呼ばれた人々は、東北に居住し、中央と著しく生活・文化様式が異なる人々のことで、人種的な区別をもたない、政治的文化的な区分です。
平安時代中期以降に北海道が蝦夷(えぞ)と呼ばれるようになり、鎌倉時代に北海道のアイヌ支配が確立します(アイヌは中世以降の呼び名)。
蝦夷(えみし)のすべてがアイヌの祖先であるとは断言できません。
画像協力/宮城県
2024年は、多賀城創建1300年 | |
所在地 | 宮城県多賀城市市川立石 |
場所 | 宮城県多賀城市市川城前 |
関連HP | 多賀城創建1300年記念サイト |
電車・バスで | JR国府多賀城駅から徒歩16分 |
ドライブで | 三陸自動車道利府塩釜ICから約3.6km。または、仙台東部道路仙台港北ICから約5km |
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