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下野国庁跡

下野国庁跡

古代に毛野国(けのくに)は、後に上毛野国(かみつけぬくに=現在の群馬県)と下毛野国(しもつけぬくに=現在の栃木県)に分国。さらに上野国(こうずけのくに)、下野国(しもつけのくに)と呼称が変化しています。下野国の国府、政庁があった下野国国庁跡(しもつけこくちょうあと)は、栃木市田村町宮ノ辺で遺構が発見されています。

史跡公園として整備され前殿が復元、下野国庁跡記念館が建つ

復元された前殿
前殿両側の藤棚が脇殿の大きさを表しています

昭和51年11月に始まった本格的な発掘調査で、昭和54年8月、宮目神社(みやのめじんじゃ)周辺で、95m四方の範囲を板塀によって区画された政庁跡の遺構が発見され、発掘された遺物から、8世紀前半から10世紀初期まで、ここが政庁として機能したことがわかっています。

出土した木簡(もっかん=木札に記された文書)から天平元年(729年)には国庁として機能していたことがわかっています。

天慶2年(938年)12月11日には、平将門(たいらのまさかど)が兵を率いて下野国庁を占拠。
これが有名な平将門の乱(承平天慶の乱)です。
ちょうど、下野国の国司(地方長官)の交代時期に当たり、新任の国司・藤原弘雅、前任国司・大中臣完行は、戦わずして印鎰(いんやく)を渡して京に逃れています。
12月15日には上野国府を攻略、12月19日には「新皇」を宣言していますが、天慶3年(939年)2月14日には平貞盛軍に討ち取られています。

国庁の正殿(せいでん)は、宮目神社(みやのべじんじゃ)の社叢(しゃそう)あたりと確認されていますが、まだ未調査です。
国府役人が儀式、行事を行なう前殿(ぜんでん)は何度も建て直されたことが判明しています。
東西の脇殿跡(わきどのあと/脇殿=45.0m×4.8m)には長大な藤棚が築かれています。

13.8m×4.2mの南門から南へ幅9mの南大路がのび、大路に面した西側に官衙(かんが=国司の館、役人の居住区、兵舎、使用人達の家屋)が配されていました。
ちなみに奈良時代、国庁に勤務する下級官僚は一般農民と同じ竪穴式住居に暮らしていました。

現在、史跡公園として整備され、平成6年に東西22.2m、南北5.4mの前殿が復元されています。
5000点もの木簡、漆紙文書(うるしがみもんじょ)、墨書土器(ぼくしょどき)、瓦、硯(すずり)など大量に出土した遺物は、平成8年完成の栃木市立下野国庁跡記念館(入館無料)に保存展示。

下野国庁は、古代の栃木県庁!?
天皇を中心とした律令体制が確立した奈良時代。
全国を60あまりの国に分け、国の下に評(こおり=後の郡)、さらにその下に里(後の郷)を設けるという制度を確立しました。
現在の栃木県は、当時の下野国とほぼ同じ範囲です。
中心となる官庁が建つ部分を国庁、それに付随する役所などをあわせて国衙(こくが)、さらに周囲全体を含めた広い部分が国府と呼んでします。
下野国庁は、まさに現在の栃木県庁にあたる施設です。
奈良時代には寺も官営、僧侶も国家公務員だったので、国府には国分寺、国分尼寺などの官寺が建立されています。
平安時代になって、荘園制の進展など土地の私有化が進むと、国庁としての機能が薄れ、しだいに廃絶されていきました。
下野国庁跡
名称 下野国庁跡/しもつけこくちょうあと
所在地 栃木県栃木市田村町・宮ノ辺
関連HP 栃木市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR・東武日光線栃木駅からタクシーで15分
ドライブで 東北自動車道栃木ICから約10km
駐車場 36台/無料
問い合わせ 栃木市観光協会 TEL:0282-25-2356/FAX:0282-20-7373
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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