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踊子の里資料館

踊子の里資料館

東京都大島町波浮港、川端康成の小説『伊豆の踊子』に登場する踊子たちが住んでいたのが、大島の南端・波浮港(はぶみなと)。『伊豆の踊子』は、その波浮港の港屋旅館の酒宴で芸を披露していた大島の旅芸人一座がモデルで、港屋旅館が廃業後、資料館として再生され、波浮の港の歴史を今に伝えています。

『伊豆の踊子』ゆかりの波浮港の歴史遺産

川端康成の小説『伊豆の踊子』は、主人公である第一高等学校の学生は、修善寺に1泊そして湯ヶ島で2泊したおり、踊子達と出会います。
踊子は下田の「甲州屋」(現「Guest House 甲州屋」)に宿泊し(『伊豆の踊子』「甲州屋という木賃宿は下田の北口をはいると直ぐだった。私は芸人達の後から屋根裏のような二階へ通った」)、乗船場(「藤井回漕店」がありました)で主人公たちに見送られて、東京湾汽船(現在の東海汽船と神新汽船)で伊豆大島へと帰っています。

爆裂火口を掘削した天然の良港である波浮港は、明治から昭和初期にかけて漁業基地として栄えた地。
旧館が明治時代に、新館が大正時代に建築された港屋旅館は、木造3階建ての豪壮な建物で、豊漁に湧いたときには宴会が行なわれた場所です。
当時は貴重だった電話も、郵便局の「一番」に次ぐ「電話二番」で、まさに地域の中心的な存在だったのです。
また、風待ち港としても利用されたため、時化(しけ)の際には旅行者でも賑わいました。

『伊豆の踊子』に登場する踊子・薫は、実際に波浮港に暮らしていた踊子・松沢たみ(加藤文太夫一行、加藤文太夫の養女)がモデルとされ(川端康成は19歳、踊子・タミが13歳の出会いです)、現在は「踊り子の里資料館」として保存され、周辺には明治期の建物である「旧甚の丸邸」、踊子が港屋旅館へと通った「踊子坂」などが残されています。

大正15年、川端康成は『文芸時代』に『伊豆の踊子』を発表していますが、このときにはすでに踊子・タミは波浮から下田に転出しています。
昭和8年、田中絹代主演で最初の映画『伊豆の踊子』が公開され、波浮港も一躍有名になるのです。

踊子の里資料館
名称 踊子の里資料館/おどりこのさとしりょうかん
所在地 東京都大島町波浮港1
ドライブで 元町港から約15km
問い合わせ 大島町観光産業課 TEL:04992-2-1446
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

波浮港見晴台

伊豆大島(東京都大島町)を一周する大島一周道路の脇にあり、大島南部の景勝地である波浮港(はぶみなと)が一望の展望台が波浮港見晴台。『波浮の港』(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平/昭和3年)、都はるみの歌った『アンコ椿は恋の花』(昭和39年)の

『アンコ椿は恋の花』歌碑

伊豆大島(東京都大島町)の南端、波浮港(はぶみなと)を一望にする波浮港見晴台の一角に立つのが『アンコ椿は恋の花』歌碑。東京オリンピック開催の直前、昭和39年10月5日に発売された『アンコ椿は恋の花』は、都はるみ3枚目のシングル曲で、大ヒット

旧甚の丸邸

東京都大島町、伊豆大島の南端、波浮港(はぶみなと)にある明治時代に建築された旧家が旧甚の丸邸(きゅうじんのまるてい)。波浮港は、承和5年(838年)、マグマ水蒸気爆発でできた火口を掘削した天然の良港で、甚の丸邸は、網元で、踊子の里と呼ばれる

オタア・ジュリアの十字架

東京都大島町、伊豆大島の南東部、カキハラ磯の北、筆島を眼前にする海岸にあるのがオタア・ジュリアの十字架。慶長17年(1612年)、神津島へ遠島になった家康の側室付きの侍女オタア・ジュリア(ジュリアおたあ)に因んだもの。オタア・ジュリアの波

筆島

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