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波浮港見晴台

波浮港見晴台

伊豆大島(東京都大島町)を一周する大島一周道路の脇にあり、大島南部の景勝地である波浮港(はぶみなと)が一望の展望台が波浮港見晴台。『波浮の港』(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平/昭和3年)、都はるみの歌った『アンコ椿は恋の花』(昭和39年)のヒットで一躍有名になった波浮港を眼下にします。

『伊豆の踊子』の故郷、波浮港を一望に

波浮港は、もともとは9世紀中頃に発生したマグマ水蒸気爆発によって生じた内陸の火口湖(マール)だった波浮の池が、元禄16年11月23日(1703年12月31日)、元禄地震(元禄関東地震=相模トラフ巨大地震)での大津波で外海と通じたため、薬草調査のための案内人として伊豆大島に来島した商人・秋廣平六(あきひろへいろく=波浮港で没して墓もあります)が幕府に願い出て、寛政13年(1801年)に開削、港として完成させたもの。
以降、火口湖の地形を活かした静かな湾は、大島の重要な風待ち港となり、遠洋漁業の中継地としても発展しました。

現在では海の玄関口の役割を元町港などに譲っていますが、昔ながらの風情ある港町の雰囲気が、色濃く残っています。
ちなみに川端康成の短編小説『伊豆の踊子』のラストシーンは、旅芸人一座との下田港での離別。
実は『伊豆の踊子』の出身地は波浮港で、主人公(「私」)と別れた後、踊子(薫)ら旅芸人一座は下田港から波浮港へ向かう汽船に乗り、大島へと帰ったのです(主人公薫のモデルになったタミとその家族は波浮港で実際に生活していました)。

展望台から眼下にする対岸には、踊子たち旅芸人一座が演芸を見せた旧港屋旅館(旧館が明治時代に、新館が大正時代に建築)、地元で踊り子坂と呼ばれる坂道があります。

波浮港は伊豆大島ジオサイト(波浮港<元爆裂火口>)にもなっているほか、平成12年には『アンコ椿は恋の花』歌碑も建立されています。

波浮港見晴台
名称 波浮港見晴台/はぶみなとみはらしだい
所在地 東京都大島町波浮港
関連HP 大島町公式ホームページ
電車・バスで 元町港から東海汽船バス波浮港行きで40分、三中前下車
ドライブで 元町港から約14.7km。または、大島空港から約18.3km
駐車場 5台/無料
問い合わせ 大島町観光課 TEL:04992-2-1446
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

『アンコ椿は恋の花』歌碑

伊豆大島(東京都大島町)の南端、波浮港(はぶみなと)を一望にする波浮港見晴台の一角に立つのが『アンコ椿は恋の花』歌碑。東京オリンピック開催の直前、昭和39年10月5日に発売された『アンコ椿は恋の花』は、都はるみ3枚目のシングル曲で、大ヒット

筆島

東京都大島町、波浮港(はぶみなと)の北側にある筆島海岸の沖にある小さな島が筆島(ふでしま)。高さ30mほどの文字通り筆先が海面から突き出したような島ですが、実は伊豆大島誕生以前にこの地にあった、筆島火山の火道(かどう=マグマの通り道)にあっ

旧甚の丸邸

東京都大島町、伊豆大島の南端、波浮港(はぶみなと)にある明治時代に建築された旧家が旧甚の丸邸(きゅうじんのまるてい)。波浮港は、承和5年(838年)、マグマ水蒸気爆発でできた火口を掘削した天然の良港で、甚の丸邸は、網元で、踊子の里と呼ばれる

踊子の里資料館

東京都大島町波浮港、川端康成の小説『伊豆の踊子』に登場する踊子たちが住んでいたのが、大島の南端・波浮港(はぶみなと)。『伊豆の踊子』は、その波浮港の港屋旅館の酒宴で芸を披露していた大島の旅芸人一座がモデルで、港屋旅館が廃業後、資料館として再

 

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