1606(慶長11)年に江戸城の縄張りされ、翌年完成した江戸城の玄関。1620(元和6)年の江戸城修復に際し、伊達正宗(だてまさむね)らの力により現在のような桝形形式(ますがた=橋を渡ってから道は鍵型に屈曲する)の城門となった江戸城の正門。その警備は鉄砲30丁、弓10、長柄20という厳重なものだったとか。
入口側の高麗門のみ江戸時代の建築物
1607(慶長12)年、築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)によって1年3ヶ月ほどかけて築かれました。
1620年(元和6年)の江戸城修復に際には、伊達政宗(石垣を担当)や酒井忠世(さかいただよ)によって再建され、現在のような桝形門になっています。
酒井忠世の孫・酒井忠清は大手門の下馬札近くに屋敷を持ったため、下馬将軍と呼ばれましたが、大手門工事にも伊達、酒井を当て、大手門周辺に三河以来の忠臣を配したという、徳川家の緻密な戦略が窺い知れます。
江戸城大手門は、高麗門と渡櫓(わたりやぐら)型の櫓門で構成された典型的な枡形門の形式(石垣を四角く巡らして直進できない通路を設けた門)で、渡櫓の櫓門は桁行22間(40m)、梁間4間2尺(7.9m)という大規模なもの。
渡櫓門には長大な武器庫である建物を載せていました。
大手門の警備を担ったのは、10万石以上の譜代大名2名です。
現存する高麗門は、1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)後の1659(万治2)年に再建されたもの。
江戸時代の渡櫓門は、残念ながら昭和20年の戦災で焼失。
昭和41年の東御苑開園に伴い昭和40年から復元工事が行なわれ、高麗門なども修復、往時の雰囲気が再現されました。
大手門は江戸城登城の玄関口
全国300もの大名ほか諸侯は、この大手門から入城し、三の丸、二の丸を経て本丸へと登城しました。
つまりは参勤交代の大名も、将軍に拝謁するための正規なルートとして、この大手門から入城したわけです。もちろん、フリーパスで入城したわけではなく、お供を含めて大手門から先、何重にもわたる厳しいチェックを受けたのです。
勅使の参向、将軍の出入りなども当然、この門が利用されています。
現在では大手門をくぐると内部は、宮内庁の管理する皇居東御苑で、一般にも開放されています。
大手門に向かって右側(南側/日比谷公園側)の濠(ほり=堀)が大手濠、左側(北側)が桔梗濠(ききょうぼり)です。
桔梗濠と外側の和田倉濠も江戸時代にはつながっていました。
これらの濠は江戸城の内濠で、外堀はほぼ現在の外堀通りの位置にありました。外濠の多くは埋め立てられ、弁慶濠のみ現存。四谷濠〜市ヶ谷濠〜牛込濠(JR四ツ谷駅〜市ヶ谷駅〜飯田橋駅)も往時の雰囲気を残しています。
大手門に近い外濠は、東京駅のさらに外側の八重洲側を南北に通っていました。日本銀行の向かいにある日本橋川(外濠)に架かる常磐橋と常磐橋門(跡)はかつての江戸城の入口です。
大手門にたどり着くまでもかなりの道のりだったことがおわかりいただけるでしょうか。
この江戸城改築の功で1608(慶長13)年には伊予今治藩12万石から津藩22万石に加増転封されています。今治城は高虎の養子・藤堂高吉を城代として治めさせています。家康は藤堂高虎の才能を大いに評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用しています。家康死去の際には枕元に侍ることを許され、家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕えているのです。墓は東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院。三重県津市の高山神社にも祀られています。屋敷は神田にあり、神田和泉町(千代田区)の和泉は、藤堂高虎の官位である和泉守にちなんだもの。
鯱
枡形内に渡櫓の屋根を飾っていた鯱が展示されています。
刻印に「明暦三丁酉」(丁酉=ひのととり)とあり、1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)で焼失した後、1659(万治2)年に大手門が再建されたときのものと推定できます。昭和20年の空襲で門は焼け落ちましたが、鯱だけが現存しているのです。
古地図&絵図に見る江戸城大手門
江戸城大手門(皇居東御苑) | |
名称 | 江戸城大手門(皇居東御苑)/えどじょうおおてもん(こうきょひがしぎょえん) |
所在地 | 東京都千代田区千代田1-1 |
関連HP | 宮内庁公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ東西線・都営三田線大手町駅から徒歩6分。東京メトロ東西線竹橋駅から徒歩10分、JR東京駅丸の内北口から徒歩11分 |
駐車場 | 無/大手センターパーキング(185台/有料)などを周辺の有料駐車場を利用 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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