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鍋島松濤公園

江戸時代には徳川御三家で吉宗を排出した紀州藩徳川家の下屋敷だったち地。元佐賀藩主の鍋島家が明治9年、この地に茶園を開いて「松濤」(しょうとう)の銘で売り出しました。後に一帯は宅地化され、高級住宅地として分譲されましたが、池泉周辺のみ児童遊園として公開。昭和7年に東京市に寄贈された後、渋谷区に移管されています。

明治時代、一帯には鍋島家の茶畑が広がっていた!

鍋島藩が渋谷に築いた茶園(イメージ)

紀州藩がこの地に下屋敷を築いたのは将軍家の鷹狩場だった駒場野(現在の駒場公園周辺)、碑文谷原、碑文谷池に近く(目黒は将軍家で人気の鷹狩の場所でした)、大山街道(青山通り)が通るという地の利から。
江戸府内と府外の境という土地の広さも考慮されたのでしょう。

その後、幕末まで紀州藩徳川家下屋敷は存続しましたが、明治維新で大転換が。
その土地に目をつけたのは新政府側の佐賀藩です。

佐賀藩第11代(最後の)藩主・鍋島直大(なべしまなおひろ)は、進取の気性に富んだ佐賀藩の藩主らしく、藩の殖産としてパリ万博(1867年)に有田焼を出展するなど、殖産興業にも務めていました。

幕末の戊辰戦争では政府軍として活躍。明治新政府の誕生後は軍制改革と海軍創設の急務を説き、明治4年に岩倉使節団としてアメリカに留学。明治6年にはイギリスに留学しています。

失業した武士の救済策として茶園経営が始まったのは、鍋島直大イギリス留学中のこと。
鍋島家の総意でこの大事業が進んでいたことがわかります。

茶の苗は、故郷の佐賀県からではなく、狭山茶を移植しています。
富ヶ谷の三田用水から水を引いて茶畑を造成。
松濤園で生産された茶は、『松濤』と名づけられ、明治の東京市民に愛飲されていました。

茶の湯の釜がたぎる音を、松風と潮騒に例えた優雅な呼び名。
明治22年、東海道線が全通(現在の御殿場線回り)すると、東京にはやはり武士が開拓した牧之原台地などの静岡茶が流入。
これで、鍋島家の茶園は幕を閉じ、茶畑は畑果樹園種蓄牧場 「鍋島農場」へと変わります。
(明治20年代にはすでに大塚など東京近辺に牛乳などを生産する牧場が数多く誕生しています)

現在の鍋島松濤公園は、明治時代に家族となった鍋島候爵が池の周囲に周回道をつけ、岸の斜面に芝を植えて公園としたもの。

鍋島侯爵の邸宅は、現在の松濤郵便局(シティコート松濤ビル)あたり。鍋島家本邸は現在の松濤中学校です。
大正13年には湧水からなる池を児童公園として一般に公開。これが現在の鍋島松濤公園です。

大正末期から、松濤地区の大地主・鍋島家の農場の宅地化と分譲が始まります。
当時、豊多摩郡渋谷町の大山、神山、大向地区(現・渋谷区松濤1丁目、松濤2丁目)はまだまだのどかな農村地帯だったのです。

「忠犬ハチ公」の飼い主だった東京大学農学部教授の上野英三郎博士も現・渋谷区松濤1丁目に住んでいました。

鍋島松濤公園の大きな池の水は、渋谷粘土層上の上から湧き出す湧水によって維持され、水深も1mとかなり深いのが特長。
江戸時代、この池が紀州藩の大名庭園の一画だったのであれば、鍋島家もそれを活かしたでしょうから、単なる湧水池と考えるのが妥当なのかもしれません。

現在では水車小屋が設置され、「江戸時代に似た雰囲気」を醸し出しています。

分間江戸大絵図に見る 紀州藩江戸下屋敷

1772(明和9)年刊の『分間江戸大絵図』に描かれた渋谷周辺。

紀州藩がこの土地を最初に拝領したときは5万坪という広大なものでしたが、1695(元禄8)年、分家の伊予西条藩・松平左京太夫(伊予の葵)へ2万坪を割渡しています。紀州藩下屋敷の北側に、松平左京の名も見えます。

絵図には、紀州藩江戸下屋敷内にしっかりと池が描かれているので、将軍家が鷹狩の際に立ち寄って憩う、大名庭園があったのかもしれません。この池の図と現在の鍋島松濤公園の池の形(南北にのびる)は、似通っているので、ひょとすると大名庭園の遺構という可能性もあるのかもしれません。

また、金王八幡宮の下に「此辺渋谷」と記されていますが、まさにその場所が渋谷城跡です。

鍋島松濤公園
名称 鍋島松濤公園/なべしましょうとうこうえん
所在地 東京都渋谷区松濤2-10-7
関連HP 渋谷区公式ホームページ
電車・バスで 京王井の頭線神泉駅から徒歩8分。JR・東京メトロ渋谷駅から徒歩12分
問い合わせ 渋谷区公園課 TEL:03-3463-1211
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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