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谷中霊園・高橋お伝の墓

谷中霊園・高橋お伝の墓

東京都台東区谷中7丁目、都立谷中霊園の一画、甲2号1側にあるのが、高橋お伝の墓。高橋お伝は、仮名垣魯文(かながきろぶん)の『高橋阿伝夜刃譚』のモデルで、明治の毒婦として世に知られています。明治9年9月9日、殺人容疑で逮捕され、死刑判決により斬首刑になっています。

実は毒婦ではなかった!? 高橋お伝の墓が谷中に

実際には、小塚原回向院に埋葬され、鼠小僧次郎吉の墓近くに眠っています。
『高橋阿伝夜刃譚』などによって毒婦のイメージが強くなっていますが、実際には初婚の高橋浪之助には手厚い看病をしていますし(毒殺といわれるのは後世の創作)、殺人に及んだのも恋仲の小川市太郎が愛人になるなら金を貸すと約束したのに、反故にしたからといわれており、あまり毒婦たる雰囲気はありません。

谷中霊園の墓地は、明治14年4月、お伝三回忌の際、仮名垣魯文が発起人になって、名興行師として明治の歌舞伎界を牽引した12代目・守田勘彌(もりたかんや)、「團菊左時代」を築いた明治の名優5代目・尾上菊五郎と初代・市川左團次(いちかわさだんじ)、落語中興の祖といわれる初代・三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)、当初歌舞伎役者だった3代目・三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)らが当時のスーパースターがお伝の芝居などが当たったのでそのお礼に寄付金を出して建立したもの。
遺骨は納められていません。

お伝の墓に参ると三味線が上達すると喧伝(けんでん)され、三味線上達の願掛けをする人もいますが、お伝が三味線上手だったという裏付けはありません。

ちなみに、最後の斬首刑となった人物ともいわれますが、高橋お伝以降にも明治14年12月30日の徳田徹夫処刑まで斬首刑は行なわれています。

谷中霊園には、天王寺・五重塔跡、徳川慶喜の墓(寛永寺墓地)もあるのであわせて見学、参拝を。

谷中霊園・高橋お伝の墓
名称 谷中霊園・高橋お伝の墓/やなかれいえん・たかはしおでんのはか
所在地 東京都台東区谷中7-2
電車・バスで JR・京成日暮里駅から徒歩6分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 谷中霊園管理所 TEL:03-3821-4456
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

天王寺・五重塔跡

東京都台東区谷中7丁目、谷中霊園内にあるのが、天王寺・五重塔跡。寛政3年(1791年)に再建された天王寺五重塔は、戊辰戦争の戦火を免れたのですが、昭和32年7月6日に放火(谷中五重塔放火心中事件)で焼失。幸田露伴の小説『五重塔』は、その顛末

徳川慶喜の墓

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谷中霊園

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