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円通寺・彰義隊士の墓

円通寺・彰義隊士の墓

東京都荒川区南千住1丁目、延暦10年(791年)、坂上田村麻呂の開創と伝えられる曹洞宗の古刹、円通寺にあるのが、彰義隊士の墓。慶応4年5月15日(1868年7月4日)の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争で戦死した彰義隊士を埋葬した墓で、隣接して幕府軍戦死者を慰霊する死節之墓があります。

上野で荼毘に付された彰義隊士が埋葬された地

上野・寛永寺には上野八門と呼ばれる8ヶ所の門があり、そのうち正門にあたるのが黒門口(広小路周辺)。
黒門口、即門の団子坂、背面の谷中門で両軍が激突しましたが、もっとも激戦だったのが黒門口で、明治40年に円通寺境内に移築された黒門には数多くの銃痕が残されています。

西郷隆盛指揮する薩摩藩は、黒門口から正面突破を図り、彰義隊は寛永寺本堂へと退却しますが、団子坂も破られて挟み撃ちとなって壊滅。

賊軍となった彰義隊士の遺骸は、そのまま放置されていましたが、円通寺住職・武田仏磨(たけだぶつま)と寛永寺御用商人(神田旅篭町の雑貨商で、人足宿「三幸」を経営)・三河屋幸三郎(みかわやこうざぶろう=父は高利貸の罪で八丈島へ流され、八丈島で生誕、新政府軍とも親交がありました)が遺骸を集めて山王台(西郷隆盛銅像付近)で火葬し、266体の遺骨を円通寺に葬っています。

当時は、新政府軍に逆らうことになるため決死の覚悟での供養だったと推測できますが、三河屋幸三郎は、戊辰戦争当時、木戸孝允、伊藤博文とともに写真(「木戸孝允等写真」)に収まっているので、新政府軍とも親しかったことがわかります。
この埋葬をきっかけに、円通寺が幕府軍の供養をする官許を得られたのです。

彰義隊士の墓に隣接する死節之墓は、新選組を含む旧幕府軍の戦死者を慰霊する墓所で、近藤勇、土方歳三、野村利三郎の名が刻まれています(死節=死ぬ覚悟で正しいと信ずる主義を守ること)。

円通寺・彰義隊士の墓
名称 円通寺・彰義隊士の墓/えんつうじ・しょうぎたいしのはか
所在地 東京都荒川区南千住1-59-11
関連HP 円通寺公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ三ノ輪駅から徒歩5分。JR・東京メトロ南千住駅から徒歩10分
ドライブで 首都高速入谷ICから約2km
問い合わせ 円通寺 TEL:03-3891-1368
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

円通寺・旧上野の黒門

東京都荒川区南千住1丁目、曹洞宗の古刹、円通寺に移築されているのが、旧上野の黒門。慶応4年5月15日(1868年7月4日)の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争で、放置されていた彰義隊の遺骸を円通寺に葬ったことが由縁で、明治40年、当時の帝室博

上野恩賜公園・彰義隊戦死者碑

東京都台東区、江戸時代には東叡山寛永寺の境内地だった上野恩賜公園、西郷隆盛像近くにあるのが彰義隊戦死者碑。慶応4年5月15日(1868年7月4日)の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争で戦死した彰義隊士を荼毘に付したのが、西郷像のある山王台です

 

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