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採荼庵跡

採荼庵跡

 東京都江東区深川1丁目、清澄庭園の南を流れる仙台堀川沿い、海辺橋の南詰にあるのが、採荼庵跡(さいとあんあと)。松尾芭蕉の門人の杉山杉風(すぎやまさんぷう)の庵の跡で、元禄2年(1689年)、芭蕉はここから『奥の細道』に旅立っているため、松尾芭蕉の像も立てられ、江東区の史跡になっています。

実際の採荼庵はモニュメントの少し南側に位置した

元禄2年3月27日(1689年5月16日)、46歳になった松尾芭蕉は、曾良を伴って江戸・深川の「採荼庵」から舟に乗り仙台堀を西に進み、大川(隅田川)を遡り、千住で舟を降り、『奥の細道』の旅へとへ出立しています。
千住宿で「行く春や鳥啼魚の目は泪」の句を詠んでいることから、千住が矢立初(やたてはじめ)の地として知られ、荒川区と足立区との間で、どちらが『奥の細道』の起点なのかという論争を生んでいますが、その日は、「明ぼのゝ空朧々(ろうろう)」という早朝に、この採荼庵から出立しているのです。

杉山杉風の家業は魚問屋(鯉上納の幕府御用)で、芭蕉を経済的に支援したパトロン。
蕉門十哲(しょうもんじってつ)にも数えられていますが、芭蕉は『奥の細道』の旅に出る前、住居としていた「芭蕉庵」を手放し、杉山杉風の採荼庵に身を寄せていたのです。
採荼庵のあった場所は、杉山杉風の娘婿・隨夢(ずいむ)の遺言状に「元木場平野町北角」と記されており、海辺橋の袂から140mほど南西にあったと推測されています(現・江東区深川1-8あたり/土地の関係から採荼庵跡の標石、松尾芭蕉の像は実際の場所より少し北側、仙台堀川沿いにモニュメントとして復元)。

海辺橋〜清澄橋間には「芭蕉俳句の散歩道」が整備され、『奥の細道』途中で詠んだ代表的な18句が木製の句碑で立てられています。

採荼庵跡
名称 採荼庵跡/さいとあん
所在地 東京都江東区深川1-9
関連HP 江東区公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄清澄白河駅から徒歩10分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 江東区文化観光課 TEL:03-3647-9819/FAX:03-3647-8470
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

仙台堀川

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素盞雄神社・矢立初めの句碑

東京都荒川区、日光街道沿い、南千住の総鎮守が素盞雄神社(すさのおじんじゃ)。境内にあるのが矢立初めの句碑で、元禄2年3月27日(1689年5月16日)、46歳になった松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅に千住から出発、最初の句を詠んだのがこの千住な

奥の細道・矢立初めの地碑

東京都足立区千住橋戸町、隅田川に架る千住大橋の北詰、千住大橋公園に立つのが、奥の細道・矢立初の碑(おくのほそみちやたてはじめのひ)。矢立初とは旅行記などの書き初めの意。元禄2年「弥生も末の7日」松尾芭蕉は『奥の細道』に、千住から旅立っている

芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)

東京都江東区常盤1丁目、隅田川と小名木川の合流地点近くに建つのが、芭蕉稲荷神社。芭蕉稲荷神社が鎮座する地は、松尾芭蕉が江戸深川に居を構えた深川芭蕉庵跡で、隅田川の畔には芭蕉庵史跡展望庭園、少し北には江東区芭蕉記念館があり、芭蕉を偲ぶ歴史散歩

 

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