東京都大田区蒲田3丁目にある大田区立の公園が、聖蹟蒲田梅屋敷公園(せいせきかまたうめやしきこうえん)。江戸時代に「和中散」(暑気あたり、めまい、風邪などに服用した家庭用常備薬)の売薬所だった敷地3000坪に梅の木数百本と花木を植え、東海道の休み茶屋を築いたことに始まります。
例年2月〜3月、「梅屋敷」に香る梅の花が見頃に
「和中散」を販売する山本久三郎が、江戸時代後期の文政年間(1818年〜1830年)に梅を始めとする花木を植栽し、東海道を旅する人向けに茶屋を開いたことが起源とされる庭園。
川崎大師や江島弁財天などへ足を伸ばす人も立ち寄り、亀戸の臥龍梅と並ぶ人気の梅見の場所となったのです。
幕末には第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が立ち寄り、攘夷派が密会に使用。
明治天皇も明治元年〜明治30年の間、9度の行幸を数え、明治6年3月6日に訪れた際には、自ら手植えで梅(「仙粧梅」)を植栽しています。
京浜電気鉄道の開通、第1京浜国道の拡幅などで規模も縮小、時代の変化で遊興地として知る人も減少しますが大正14年、大友笠洲の提唱により「明治天皇聖跡保存会」が結成され、用地の取得と園内の整備が行なわれ、「明治天皇御聖跡地」として保存が決まります。
昭和13年に東京市に寄付され、昭和14年10月12日、明治天皇行幸記念の日に聖跡蒲田梅屋敷公園として開園。
昭和28年に大田区に移管されています。
現在は100本ほどの梅があり、例年2月〜3月に見頃を迎えます。
和中散は、枇杷葉(びわよう)、 桂枝(けいし)、 辰砂(しんしゃ)、木香(もっこう)、甘草(かんぞう)などを調合した粉薬。
東海道の草津宿と石部宿の間の宿として賑わった六地蔵で大角弥右衛門が薬を製造販売する「和中散本舗」(「ぜさいや」)を営んでいました。
和中散という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々付けられた名前と伝えられています。
江戸の「和中散」販売は、大森村の中原、谷戸、南原の3店舗が、元禄年間〜正徳年間(1688年〜1716年)に開店し、南原の店を譲り受けたのが北蒲田村の山本忠左衛門で、この地に移転。
山本忠左衛門の子の、山本久三郎が梅の銘木を集めて植栽し、梅屋敷として有名になったのです。
平成29年には、大田区と「災害時における相互応援に関する協定」を締結しているアヤメで有名な山形県長井市から長井独自の品種である長井古種・11種類のあやめを取り寄せ、公園内に植栽。
見頃は例年5月~6月です。
歌川広重『名所江戸百景 蒲田の梅園』
安政3年(1856年)〜安政5年(1858年)制作、歌川広重の広重最晩年の作品となる『名所江戸百景』シリーズの春の部「蒲田の梅園」にも描かれる梅の花咲く梅屋敷。
「亀戸梅屋舗」とともに梅園として描かれた2ヶ所のひとつです。
梅の木の背後に、いくつかの石碑が描かれていますが、天保5年(1834年)の「麦住亭梅久」こと山本久蔵の句碑が現存していますが(「神酒ささぐ間に鶯の初音かな」麦住亭梅久)、この山本久蔵が、蒲田で「和中散」を販売した山本久三郎です。
右隅に大きく描かれ、遠近感を生んでいる山駕籠(やまかご)は、大旦那が梅見の間待たせているものと推測できますが、広重の映画的な空間性の実現のため、あえて置いたともいわれています。
聖蹟蒲田梅屋敷公園 | |
名称 | 聖蹟蒲田梅屋敷公園/せいせきかまたうめやしきこうえん |
所在地 | 東京都大田区蒲田3-25-6 |
関連HP | 大田区公式ホームページ |
電車・バスで | 京浜急行線京急蒲田駅、梅屋敷駅から徒歩5分 |
問い合わせ | 大田区地域基盤整備第二課 TEL:03-5713-1118/FAX:03-5713-2009 |
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