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綱の手引坂

綱の手引坂

東京都港区三田1丁目と三田2丁目の間、東側から西へと上る坂道が、綱の手引坂(つなのてびきざか)。三田は源頼光の四天王のひとり、大江山の鬼退治で知られる渡辺綱(わたなべのつな)ゆかりの地という伝承があり、その伝承に由来する坂名。綱が手引坂、姥坂(うばざか)とも呼ばれています。

三田が渡辺綱生誕の地という伝承が生んだ坂名

坂を上った頂点には綱町三井倶楽部があり、西に日向坂を下ると、二之橋で、麻布十番方面に出ることができます。
綱の手引き坂途中から南に入る坂道が、綱坂で、やはり渡辺綱に由来する坂道。

三田2丁目の高野山真言宗の寺、弘法寺には渡辺綱産湯の井戸もありますが、実際の生誕地は、武蔵国足立郡箕田村(みだむら=現・埼玉県鴻巣市箕田)といわれ、『武江紀聞』には、渡辺綱の旧跡は三田ではなく武蔵の国足立郡箕田だと記され、『江戸名所図会』も三田を渡辺綱の旧跡とすることは誤りだとしています。
つまりは武蔵国箕田(むさしのくにみだ)が武蔵国三田(むさしのくにみた)と誤解を生んだというのが真相のようです。

坂の北側は、かつて毎月5の日に邸内の水天宮の参拝を許し、「情け有馬の水天宮」といわれた久留米藩有馬家・江戸上屋敷です。
その水天宮は、日本橋蛎殻町2丁目の水天宮に遷座して健在ですが、綱の手引坂近くの元神明宮にもゆかりの有馬邸内の分霊を勧請した水天宮が祀られています。

坂の南側にはかつての伊予国松山藩上屋敷(松平隠岐守邸)で、松平定直(まつだいらさだなお)が藩主の時代に、『忠臣蔵』で知られる赤穂浪士47名のうち10名(大石良金・堀部武庸・木村貞行・中村正辰・菅谷政利・千馬光忠・不破正種・大高忠雄・貝賀友信・岡野包秀)が自害した場所です。
松山藩は10名を罪人として扱い、切腹当日は「早天より切腹人に水風呂使わし、みな謦咳の有様にて切腹申付を憂惧して拝す」と記されています。
切腹の地は、駐日イタリア大使館内で見学することはできません。

『江戸切絵図』芝高輪辺絵図に見る綱の手引坂周辺
綱の手引坂
名称 綱の手引坂/つなのてびきざか
所在地 東京都港区三田1-4、三田2-6
関連HP 港区公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄赤羽橋駅から徒歩7分、東京メトロ・都営地下鉄麻布十番駅、都営地下鉄三田駅から徒歩10分、JR田町駅から徒歩15分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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