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増上寺・三解脱門

増上寺・三解脱門

東京都港区芝公園4丁目、日比谷通りに面した増上寺の正門が、三解脱門(さんげだつもん)。江戸時代初期の元和8年(1622年)に建立された門が、震災や空襲での倒壊・焼失を免れて現存、国の重要文化財に指定されています。あまり知られていませんが、東京都内に現存する最も古い木造建築です。

東京都内に現存する最も古い木造建築

三解脱門とは、 悟りに至る空解脱(くうげだつ)、無相解脱(むそうげだつ)、無願解脱(むがんげだつ)という3つの門戸のこと。
空・無相・無願という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表す門で、京・知恩院の三門(国宝)は、増上寺・三解脱門建立に前年、元和7年(1621年)、2代将軍・徳川秀忠が再建したもので、やはり三解脱門です。

楼上は仏堂になっていて、都の有形文化財に指定される釈迦三尊像、十六羅漢像などが安置されています。

増上寺の表門は大門となるため、三解脱門は中門ということに。
徳川家康が徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所政治を始めた慶長16年(1611年=駿府城に移る前年)、幕府の助成で、幕府大工頭・中井正清が建立したのが初代の門。
家康は自身の葬儀を増上寺で行なうように指示していたほど、増上寺とは密なる関係にあったため、当然、三解脱門の建立に関しても関心を寄せていたのだと推測できます。
徳川家康が重用した中井正清が担当したのもその証です(増上寺の翌年には、名古屋城の本格的な建築工事を担当)。

元和7年(1621年)、大風により倒壊したため、元和8年(1622年)に再建したのが現存する三解脱門です。
つまりは、増上寺が幕府の威光を背景に、江戸時代初期に大造営された伽藍の面影を残す唯一の建造物ということに。

三解脱門をくぐると、念仏を称えて阿弥陀如来と親しく近しい縁を結び、煩悩から解脱した安らぎの世界「極楽浄土」への往生を願う空間が広がっているのです。

普段は非公開の2階部分
増上寺・三解脱門
名称 増上寺・三解脱門/ぞうじょうじ・さんげだつもん
所在地 東京都港区芝公園4-7-35
関連HP 増上寺公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄三田線御成門駅から徒歩3分
ドライブで 首都高速芝公園ランプから約500m
駐車場 10台/無料、または、東京タワーパーキングセンター・地下(200台/有料)など周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 増上寺 TEL:03-3432-1431
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

増上寺

徳川将軍家の菩提寺として有名。寺としての歴史は古く、その創建は1393(明徳4)年まで遡ります。徳川家康の菩提寺として芝に移されてからは、東国随一の浄土宗寺院として繁栄を続けてきましたた。東京大空襲の戦火でほとんどの建物を焼失してしまいまし

広重&豊国 浮世絵に描かれた増上寺

徳川家康が江戸入府の際に、住職に出会ったことが寛永寺と並ぶ徳川将軍家尊崇の寺となったとも伝えられる芝・増上寺。江戸時代には広大な敷地を誇る大寺院で、東海道側に設けられた大門がその玄関口として機能していました。大門は現存し、周辺の地名も芝大門

ペルリ提督の像

東京都港区芝公園2丁目、増上寺の門前、日比谷通り沿いの芝公園10号地にあるのが、ペルリ提督の像。昭和28年、『開国百年祭』に際し、ペリー提督の出身地であるアメリカ合衆国・ロードアイランド州ニューポート市に石灯籠を贈り、その返礼として親善の印

万延元年遣米使節記念碑

東京都港区芝公園2丁目、増上寺三解脱門の門前、日比谷通り沿いの芝公園10号地にあるのが、万延元年遣米使節記念碑(まんえんがんねんけんべいしせつきねんひ)。昭和35年の日米修好通商条約100周年に際し、すぐ近くに立つペルリ提督の像とともに建立

増上寺・大門

東京都港区芝公園2丁目、芝大門交差点に面して、増上寺側に建っているのが、増上寺・大門。この大門が増上寺の表門で、徳川時代にはここからが増上寺の境内、そして周囲には塔頭寺院(たっちゅうじいん)が並んでいました。門前の道はかつての東海道です。増

御成門

東京都港区芝公園3丁目、東京プリンスホテルの駐車場北側にあるのが御成門(おなりもん)。都営三田線の駅名にもなっている門ですが、その場所を知っている人は少ない、まさに知る人ぞ知る門。江戸時代に、将軍が増上寺に参詣する際にこの門を使ったのが名の

 

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