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赤塚不動の滝

赤塚不動の滝

東京都板橋区赤塚8丁目、乗蓮寺東京大仏)の東にあるのが、不動の滝。東京の名湧水57選(東京都環境局選定)にも選ばれる23区内では希少な湧水で、等々力渓谷などの不動の滝と区別化するために、赤塚不動の滝と通称されています。周辺には区立不動の滝公園が整備され環境保全が図られています。

大山講、富士講の水垢離場(みずごりば)だった湧水の滝

近くにある赤塚公園(城址地区)は、中世の赤塚城の跡、乗蓮寺(東京大仏)はその二の丸跡で、城主の千葉氏は滝に祀られた不動明王に開運を祈願したとも伝えられています。
また、中世には荒川を早瀬の渡し(早瀬村・現在の戸田市早瀬1丁目と下赤塚を結ぶ荒川の渡船)で渡り、赤塚不動の滝前を通り、鎌倉へと向かう鎌倉街道途中に位置し、近世に大山街道に転じたのだと推測されています。

江戸時代には大山詣(神奈川県の丹沢・大山寺への参詣)の大山講、富士登拝の富士講の講中(こうじゅう=信仰集団)が霊山登拜へ出発する際に身を清める水垢離場(みずごりば)として利用した霊域です。
寛政11年(1799年)に造立されている石造不動尊像は、江戸時代中期・宝暦年間( 1751年〜1764年)の大山講・富士講の最盛期を受け(江戸の人口が100万人の時代に、年間20万人が大山を目指しています)、不動明王像が造立されたのだと推測できます。

さらに、江戸時代後期には木曽御嶽山(きそおんたけさん)を信仰する御嶽講の赤塚一山元講(あかつかいっさんこう)も水垢離に利用していました。
現存する石の玉垣も明治35年の新造、昭和8年には滝壺が整備されているので、戦前までは信仰が残されていたことがわかります。

かつては滝壺の前に垢離堂(こりどう)が設けられていたと伝えられますが、今は失われています。
昭和8年の滝壺整備時には、もっと水量が豊富だったといいますが、都市化の波で、湧水量も減少しています。

板橋区は武蔵野台地と荒川低地で形成される起伏に富んだ地形で、武蔵野台地の崖下(ハケ)で多くの湧水があります。
赤塚公園(赤塚5丁目)、薬師の泉(小豆沢3丁目)、同様に富士講・大山講の水垢離の場だった御手洗不動尊(小豆沢4丁目)、志村城山公園(志村2丁目)、見次公園(前野町4丁目)などで湧水が確認され、「東京都板橋区地下水及び湧水を保全する条例」を制定し、その環境保全が図られています(赤塚城址・区立赤塚植物園周辺地域、志村城山公園と周辺地域を湧水保全地域に指定)。

東京23区内で「東京の名湧水57選」に選定されるのは、16ヶ所で、板橋区内には不動の滝が唯一です。

また、赤塚不動の滝近くには江戸時代に富士講のひとつ丸吉講(まるきちこう)が築いた赤塚諏訪神社富士塚があり、隆盛した赤塚不動の滝とともに富士山信仰を今に伝えています。

赤塚不動の滝
名称 赤塚不動の滝/あかつかふどうのたき
所在地 東京都板橋区赤塚8-11
関連HP 板橋区公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄西高島平駅から徒歩30分
駐車場 なし/周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 教育委員会事務局 TEL:03-3579-2636/FAX:03-3579-263
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

赤塚諏訪神社富士塚

東京都板橋区大門、赤塚諏訪神社社殿から南西に100mほどのところ、国道17号の脇にあるのが赤塚諏訪神社富士塚。江戸時代に富士講のひとつ丸吉講(まるきちこう)によって築かれたもので、現在の板橋区周辺の富士講の隆盛を今に伝える貴重な遺構です。板

乗蓮寺(東京大仏)

東京都板橋区赤塚にある乗蓮寺は、徳川家康から10石の朱印地を寄進された浄土宗の寺。8代将軍・徳川吉宗は、鷹狩の際の「御小休・御膳場」に使っています。境内に鎮座する東京大仏は、東京大空襲、関東大震災などの悲惨な戦災・震災が起きないように願いを

赤塚城

東京都板橋区赤塚5丁目、都立赤塚公園の一部となっている中世の平山城が、赤塚城(あかつかじょう)。康正2年(1456年)、下総千葉氏の内紛(市川合戦)に敗れた千葉自胤(ちばよりたね)が、市川城(現・千葉県市川市)から居城を太田道灌の支配下に移

御手洗池(御手洗不動旧跡)

東京都板橋区小豆沢4丁目にある湧水池に祀られた不動明王が、御手洗池(御手洗不動旧跡)。近くにある真言宗智山派の寺、龍福寺の秘仏・薬師如来が出現したと伝えられる池で、江戸時代中期には大山詣での大山講、富士山登拝の富士講の講中が出立前に身を清め

 

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