11月5日は、安政南海地震の日(津波防災の日)

安政南海地震の日(津波防災の日)

嘉永7年11月5日(1854年12月24日)、安政南海地震が発生し、南海道・東海道を大津波が襲いました。安政東海地震(旧暦11月4日)の32時間後に起こったのが安政南海地震で、現在危惧されているのが、この東海・南海の連動です。旧暦の11月5日ですが、この日が「津波防災の日」になっています。

東南海・南海地震は、おおむね100~150年の間隔で発生

安政元年(1854年)11月4日に安政東海地震、翌11月5日に安政南海地震が起き、伊豆から四国までの広範な地帯に死者3万人、倒壊家屋2万軒以上という被害をもたらしています。
紀伊半島沖で発生したマグニチュード8.4という海溝型の巨大地震で、地震被害(震害)は、紀伊半島~四国にかけての太平洋沿岸地域や畿内で甚大でしたが、直後に発生した津波によって紀伊半島~四国の太平洋沿岸は大きな被害を受けています。

地震が発生したのは申中刻ころ(16:00前後)だと推測されていますが、紀伊半島沖の太平洋で発生した津波は、紀伊水道から大坂湾(現・大阪湾)へと流れ込み、地震発生から2時間後の酉中刻(18:00前後)には大坂へも来襲、安治川や木津川の河口から浸入し、大坂市中を縦横に施された堀川に沿って遡上し、市中に大きな被害を生んでいます(大坂湾奥に推定波高2.5mの津波が襲来8000隻の船舶が破損、多くの橋を破壊し700人余の死者が発生)。

大坂では堀や川に浮かぶ小舟に避難する人々がたくさんいましたが、津波で押し流されてきた大船によって、川に投げ出されたり、押しつぶされたりしている様子が描かれた『地震津浪末代噺乃種』(じしんつなみまつだいばなしのたね)が大阪歴史博物館に残されています。

徳島県や高知県では震度6の揺れと推測されていますが、紀伊半島沿岸での津波が高さ4m~7mなのに対して、土佐国(高知県)の土佐で11m、須崎で8.5mにも達していて、震源地近くよりも大きな津波だったことがわかっています。
被害の最も大きかった土佐藩内では倒壊家屋3000余戸、焼失家屋2500余戸、流失家屋3200余戸、死者372人余という大災害に発展しています。

防災教材として知られる『稲むらの火』(昭和12年〜昭和22年までの国語教材)は、震源に近い紀伊国広村(現・和歌山県有田郡広川町)を安政南海地震で発生した高さ5mの津波が襲う話で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の英語による『A Living God』を、中井常蔵が翻訳・再話したもの。

主人公・五兵衛のモデルは濱口梧陵(はまぐちごりょう)で、梧陵の田にあった稲むら(地元では「すすき」と俗称するワラの山)に火を付け、暗闇の中で逃げ遅れていた村人を安全な高台の広八幡神社へと誘導、9割以上の村人を救ったという津波時の避難誘導の話です(死者30人)。
安政南海地震での津波の苦い経験から、濱口梧陵は当時としては最大級の堤防となる「広村堤防」(防潮堤)を広湾の海岸沿いに築いています。

昭和19年12月7日にも昭和東南海地震(マグニチュード7.9)が発生。
戦争中に発生したため被害の詳細は不明ですが、死者は1200名を超えると推測されています。
江戸時代以降、慶長地震(1605年/震源やメカニズムは不明=従来想定されている南海トラフ沿いの地震とはメカニズムが異なります)、宝永地震(1707年)、安政南海地震(1854年)、 昭和南海地震(1946年)と400年で4回発生。
「東南海・南海地震は、おおむね100~150年の間隔で発生」(内閣府防災情報)しているため、今世紀前半での発生が懸念されているのです。

『稲むらの火』
『稲むらの火』想像イラスト
11月5日は、安政南海地震の日(津波防災の日)
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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